元はと言えば、自分が言い出したことをきっかけに始まったことだ。ましてや甘いもの禁止がかかっているとなっては、多少の羞恥くらいはやり過ごさなくてはならない。しかし――妙齢の女性に素肌を触られているという事実は想像以上に気恥ずかしく、時間の経過とともに、ガイアの難しい表情はますますもってその色を濃くしていった。
「うーん……ガイアさん、少し力を入れてもらえますか?」
触る女性側――エクラの方も、真剣そのものの表情で言う。
「あ、ああ……」
力を入れると、硬くなったその部分をさわさわと撫でられる。気のせいか、先ほどよりも触れられる感覚が過敏になっているらしい。男にはない柔らかい指先の形が、目を閉じていても感じられた。
「なあ、もうそろそろいいだろ……?」
さすがにもう我慢の限界だった。頬をわずかに赤く染めたガイアは、自らに触れる白い手を取る。エクラは驚いたらしく、少し目を見開いてガイアの淡い緑色の瞳を見つめ――それから、「ええ、大丈夫です」と、穏やかな微笑みを浮かべた。
事の起こりは、アスク王国が見舞われた酷暑だった。
そこに商機を感じた――否、涼をもたらして特務機関全体の士気を上げる必要があると感じた隊長のアンナによる策略――否、提案だった。
その内容は、日頃鎧や防具に身を包んでいる英雄たちに、男女問わず開放的な服装になってもらい、脱ぐ方も見る方も夏を満喫しようというものだった。平たく言えば、水着を着て、それを見て楽しもうということだ。
残念――否、幸運にもそのうちの一人として選ばれてしまったガイアも、他の英雄たちと同じく、しばらくの間水着で過ごすこととなった。
ガイアとて男なのだから、水着になって恥じらうことも困ることもない。脱げば暑さが紛れるのも確かなので歓迎だ。だが、ただ、彼には大いなる悩みがふたつ、それと、ほんの些細な悩みがもうひとつあった。
大いなる悩みとしては、他人に見られたくない印が腕にある、ということと、水着になると大好きな菓子の隠し場所がなくなってしまうことだ。もうひとつは、そちらに比べればまったく重要性としては低いのだが、本人からすれば長年の悩みなので看過もしづらい。
それはひとえに――筋肉が少ない、ということである。
もちろんガイアも盗賊として危険な橋を渡ってきたのだから、それとなりに鍛錬も積んでいる。だが、ともに薄布一枚という格好で過ごすことになったフレデリクの肉体と来たら、さすが王国の近衛騎士だけあって見事なもので、それと比べて劣等感を覚えてしまったのだった。
「俺も鍛えてはいるが、特に……腹筋が中途半端だからな」
あるとき、ガイアはエクラとの会話の中で、ついそのことをこぼしてしまった。
「それって――お菓子の食べすぎではないですか?」
きょとんとしながら、彼女は、めたぼよびぐん、という聞き慣れない言葉を唱えた。アスク王国には、あらゆる異界の英雄が集まっているが、この召喚師は特務機関ですら聞き知らぬ異界から招かれたらしく、時折妙な言葉を使う。おかげでその意味はガイアにはまったくわからなかったが、何かよからぬことの予備軍だということだけは理解した。
「お菓子のせいで筋力が落ちているというと、戦力にも関わりますし……そうなると、お菓子の禁止も考えなくてはなりませんね」
先ほどまで軽い会話のはずだったのだが、気がつけばエクラは神妙そのもので声の調子を落としている。
その真剣な様子にぎょっとしたのはガイアだ。
特務機関の中でも要と呼ぶべき軍師エクラに、隠し持って食べている菓子のせいで腹筋が弛んでいる、などという疑惑を向けられては沽券に関わるというものだ。何より菓子禁止などもってのほかである。
当然、そんなことはない、と反論したが、訝しがる視線が守るもののない腹筋をぐさぐさと貫き、思わずこう告げたのだった。
「そっ……そこまで言うなら、あんたが触って確かめてみればいいだろ!」
「――それで、どうなんだ?」
咄嗟に掴んでしまった手をそっと放し、わずかに距離を取る。ややあってからガイアがそわそわと問いかけると、エクラは、うん、と力強くうなずいた。
「中途半端ではないと思います。さすが鍛えていらっしゃるから、整った肉体をなさってますよね」
その返答に、ガイアはぱっと花が咲くような笑顔を浮かべる。
「そうか! じゃあ、菓子を我慢しなくてもいいんだな?」
「もちろんです。お菓子禁止だなんて、ガイアさんにはひどすぎるでしょう?」
声も弾ませ、全身から嬉しさが溢れさせているガイアに、エクラもまた口元をほころばせる。
「なんだ、それじゃあ……」
「ちょっとした冗談です。ガイアさんがあまりに真剣に気にしてたものだから、ごめんなさい」
エクラには初めからそんなつもりはなかったと知り、いささか拍子抜けをした。年頃の女性が、ちょっとした冗談で男子の肉体をいたずらに触るのもいかがなものだろうか。
とはいえ、とガイアは考え直す。
ここに集った英雄たちは、様々な経歴や信念を持っている。冷静になってみれば、そんな多岐に渡る英雄たちに慕われているこの心優しい召喚師が、そのようなことをするわけがないことくらいすぐに理解できることだった。
「これからもお菓子を食べる幸せそうなガイアさんのお姿、見せてくださいね。もちろん、戦場でも頼りにさせてください」
どれほど菓子禁止に動揺していたのか、ということを強く自覚してやや情けなくなっていたガイアに、召喚師エクラはひたむきなまでの信頼を込めて穏やかに微笑んだ。
彼女は実に温厚篤実で、城をこまめに見回っては、異界の英雄たちと出会っては敬意を持って挨拶し、相手の状態や性格を把握する。もちろん戦略に役立てるためでもあるが、そうして関わりを持つことによって、戦場の外でも信頼関係を築いていくのだ。
ガイアも、そうやって絆を深めてきてくれたエクラだからこそ、色々なことを話すことができる。それは自警団で得た絆とはまた異なる信頼だった。
だからこそ、だったのかもしれない。ふとガイアの中にわずかな悪戯心が芽生えたのは。
「……なあ」
「はい?」
ガイアは顎に手を置き、その格好のままでエクラを眺めた。
「あんたは水着にならないのか? なかなか似合うと思うんだが」
その一言で、エクラの顔つきが召喚師のものから年齢相応の女性のものに変わった。ややうろたえた様子で手と首を横に振り、完全に拒否の構えを見せている。
「だ、だめです! 英雄の皆さんと違って、お見せできるような肉体でもないですし!」
「腹筋が弛んでいるなら、俺が調べてやろうか」
「な……け、結構ですっ!」
いつも着用している召喚師のローブのフードを急いで被り、焦りと恥じらいの混ざった表情を隠す。それから、せくはら、というやはりよくわからない捨て台詞を残して走り去っていった。
おそらくは罵られたのだろうと、言葉の響きだけでガイアは想像するが――あのような憎めない顔で言われたところで、痛くもかゆくもない。
「腹筋を触らせてやった報酬くらいにはなったな」
最初からエクラにその気がなかったのだとしたら、自分だけが晒した腹筋を触らせたのは不公平だ。ならば、それ相応の対価くらいもらっても罰は当たらないだろうと思っていたが、想像以上の収穫を得られた。日頃なかなか見ることのできない顔を見られたことは、そう悪くはない。
ガイアは思いのほか満足したように笑い、部屋で氷菓子でも食べようと水着姿のままきびすを返した。