まるで幸せの縮図のようなその三人の後ろ姿が少しずつ離れていくのを、カスピエルは何らの感慨もなく見つめていた。――否、カスピエル自身は別段それを見たくて見ていたわけではない。自分の認めた召喚主がそれを見つめていたから、付き合いで眺めていただけだ。
「ソロモン、もうええか?」
「もう少しだけ……待ってくれないか」
既に何度目かになる出発を促す言葉に、ソロモンは首を横に振った。
召喚主は、それなりに長い時間、ここに立ちすくんで親子を見ていた。そんな彼に対し、他のメギドたちはいつものことだと呆れたり、お人好しだと皮肉を言ったり、各々諦めたようにして近くに腰を下ろすなどしている。だが、カスピエルはその隣に立ち、なんとなく同じ景色を視界に収めていた。
――そもそもの始まりは、偶然立ち寄った街で耳にした、幻獣の巣が近くにあるという情報だ。
ソロモンという男は、例え些細なものであれ幻獣の情報を放置できる人間ではない。悲しい過去とそもそもの善性が、彼をそうした行動に駆らせるのだが、ともに旅をするメギドたちもそれをよく理解している。彼らがほぼ当然のごとく情報にあった場所へ向かうと、その道中で、あの両親が必死の形相で子どもを捜していたのだった。
もしかすると巣の近くに迷い込んだのかもしれないというバルバトスの発言を聞くや、ソロモンはやはりすぐさま捜索の手伝いを申し出た。一行が巣の近くまで来ると、ちょうど子どもが幻獣に殺されそうになっていた。
そうして間一髪で助け出されたのが、あの子どもだった。
「なあ、さすがにそろそろええやろ」
瀬戸際のところを救い出したのだ。無事な彼らを見つめて感慨に耽る気持ちは、性格にやや難のあるカスピエルにも理解ができた。しかし、とうに親子ははるか彼方を歩いている。いくらなんでもいささか度が過ぎるのではないかと、先を急がそうと強めに言い放つ。それでもやはりソロモンは頑として首を縦に振らなかった。
「いや……もう少し……あの子が見えなくなる、まで……」
返ってきた声は、やけにか細い。
違和感を覚えたカスピエルがソロモンの顔を注視する。様子がおかしい。額には珠のような汗が浮き、唇の血色がみるみる消えていく。唇のみならず、明らかに顔色が悪くなっていた。
視線を、顔から下へと素早く動かす。
ずっと押さえていたのか、押さえていたのが限界を超えたのか、脇腹に宛てている左手の隙間から血が滲み始めている。見ている間にも赤い血は量を増やし、指輪を濡らし、腰や脚を伝っていく。
「お前、まさか、」
幻獣との戦闘で傷を負ったのか。
言葉の続きも、傷口を確かめようとする動きも、ソロモンは右手を少し上げるだけで制した。元々やや浅黒い肌をしているのに加えて末端にまで血液が届いていないせいで、その指先が土のような色をしている。
本来ならば、今すぐにでも楽な姿勢にさせ、回復の得意なメギドを呼びつけて治療を施すべきだ。
だが、ソロモンはおそらく、あの親子に妙な罪悪感を残させないため、万が一振り返ったときに怪我を悟らせないため、意地で立っているのだろう。他でもないソロモンがそれをやり切ろうとしている以上、待ってやらねばという想いもあった。
カスピエルは拳を強く握り締め、端整な顔にそうとわかるほどの苛立ちと焦りを浮かべながら、もはや小さくなっている親子の背中に目を向けた。振り返らずに、早く行ってほしい。やけに長く感じる時間に歯噛みして、耐える。
しばらくして完全に姿が見えなくなる。それを確認すると、カスピエルはため息をつきながらソロモンへと振り返った。
「ほら、行ったで。……もう、こっちの言うことも聞いてくれてもええよな?」
感情を押し殺しての問いかけは、カスピエルの声から抑揚を失くしていた。
「……カスピエル、ごめん」
「なんで謝るねん」
力なく詫びるソロモンを運び、草むらの上へ寝かす。自身も草むらに片膝を立てて座り、近くにいるメギドを手招きする。呼ばれたバティンは、不承不承やってきたものの容態を見るやすぐに治癒の準備にあたった。
「え、いや……だって……怒ってるだろ」
怪我のせいもあって、叱られた子犬のように気弱な顔をしているソロモンを見下ろし、カスピエルは思わず表情を緩めた。
「怒りっていうよりも、なんやろなあ……。らしくもない感傷……みたいなもんかもしれん」
視線を外して、遠くを見る。かすかに吹いた風が、青紫色のメッシュの入ったピンクの長い髪を揺らした。
「……俺は、独りで死んだ男を知っとる」
少しの沈黙の後、つぶやいたカスピエルの声は、大半がその風に吹き流されていく。
「その人はな、独りで生きていける強い人やった。けど、そのせいで俺の知らんうちに――誰にも知られんうちに、独りで死んでいった」
あまり聞かせる気がないのか、それとも、心が遠くに在るのか。独白のように話していたカスピエルが、つと顔をソロモンへ戻した。
「お前は独りで死ぬ男やない。けどな、お前は誰かのために死を選びかねんヤツや」
「カ、スピエル……?」
左右で色の違う瞳が、いつになく真剣な輝きを宿している。ソロモンは、ほとんど吐息で名を呼びながら、ほんのわずかに首をもたげた。
風が、止む。一瞬のしじまの中、
「なあ、ソロモン。――お前、死ぬなや」
カスピエルは請い願うように言った。
この男のために生きてやろうと決めたのだ。今度は、独りで死なせはしない。――守る、などとは、さすがに言えなかったが。
「……治療に専念しますので、ちょっと黙っててもらえます?」
辛辣な彼女なりの気の遣い方だったのだろうか、それまで黙って止血を続けていたバティンが、患部を凝視したまま口を開く。カスピエルは「ああ、せやな」といつもの調子で立ち上がると、地面につけていた膝の部分をパンパンとはたいた。
「ほな頼んだで。あ、バティン、痛い治療はやめたってな。『あんまり』な」
離れ際に意地の悪い言い方をする。バティンは、そこで初めてカスピエルの方に顔だけを向け、彼女を知る者なら空恐ろしさすら覚える柔らかな微笑みを浮かべた。
「わかりました、『そこそこ』にしておきますね」
「えっ……ちょっ、カスピエル……バティン……?」
手痛い治療はバティンの得意分野だ。嫌な予感に襲われたらしきソロモンの視線を無視して、カスピエルは先ほど彼が立っていた場所に歩み寄せる。新しい血がいくつか滲んでいる地面に立つと、親子の消えていった方角を眺めた。
「い、痛っ、イタタタタっ?!」
自分は、ずいぶんと厄介なお人好しのために生きていくと決めてしまったものだ。
慌てた声を背中に聞きながら、カスピエルはくす、と笑った。