胡蝶の夢


 色のない世界に、水の底に射し込む光のような青が宿る。その色は決まって、あの人のいないときに現れて、ページをめくる私の手元をひらひらと舞った。青光をまとった蝶は読んでいた本の角に器用に止まり、羽ばたきを緩やかにして翅を休める。
 これまでなら蝶の訪れになど気にも留めなかったし、蝶もまた、こんなにも私の近くには寄って来なかった。この変化が蝶のものなのか、私のものなのかは、わからない。ただ、なぜだか妙に心が動いて、自然と声をかけていた。
「また来たの? あの人なら……、今日はまだ来ていないわ」
 その言葉が途中で引っかかったのは、きっと、私に迷いがあったからだ。
 EGOが溜まったらまた会いに来なさい。そう言ったのは自分だった。でも、あの人との会話を重ねるうちに、本当は――私の方こそが会いに来てほしいという衝動を抱え始めている。それでもまた私は、突き放すような言い方をして、相手の意思に任せるような素振りで、まるで駆け引きみたいなことをしている。
「今日は……来ないかもしれないわね」
 蝶に話すことによって、自分に言い聞かせる。もしもあの人が来なかったときのために心を守ろうとしている。
 まるでそれをわかっているかのように、蝶は青い翅を休めたまま反応を見せなかった。
「ねえ……素直に会いたいと、話がしたいと、そう言えば、あの人にもっと会えるのかしら……?」
 問いかけてみると、翅がひとたび、ふたたび、静かにはためいて、モノクロームを奏でる世界に美しい鱗粉が弾けた。
 蝶は何も言わずに本の角から、布手袋を嵌めた私の指先へ。振り払われなかったことに安堵したのか、蝶はまるで、私の寂しさに寄り添うようにしてもう一度翅を休める。
「本を読むには邪魔ね。でも……いいわ、一緒に待ちましょう」
 今しがた舞った青く光る鱗粉が、あの人のいない空間に溶けて、消える。
 蝶とふたり、無限の時間に安らぎをくれる人の訪れを待ちわびて、空いた片手で新しいページをめくった。

(2019/01/13)


春待草


 雪が積もったときの静けさは、振動を雪が吸収するからだという。だとしたら、この部屋がこれほど静かなのは、本棚に隙間なく詰まった本が全ての音を吸収しているからなのだろうか。
 そう――私の世界はずっと、しじまに満ちていた。
 けれど、今の静寂はほのあたたかい。焦燥と衝動に追われていた時間は、あるときを境に、冬の終わり際に春を待つような穏やかなものへと変わった。
 ただ、春を待つという時間は穏やかでも、苦がないわけではない。果てのない時間は、ときとして――例えば、そう、読んでいる本の内容によっては不安すら連れてくる。
 そんなときは、頭の中にある負の感情を明文化して、輪郭を持たせる。形を与えることによって自分の悩みと向き合い、客観視する。
「漠然とした不安に悩まされているときは、紙に書き出してみるといいわ」
 そういえば、このやり方を教えたときのあの人は、少し驚いていた。まるで悩みを抱えていることが意外そうに、丸くした瞳で私を見ていた。
 少し不本意な気はするけれど、それもそうだろう、と思う。
 あの人がこの部屋にいる間の私は悩みなんて持ち得ないのだから、本人がそれを知らないのも当然だった。
 ふと、しおり代わりに本へ挟んでいた小さな紙を取り出す。
 私にとっての春は、あの人だ。柔らかなさえずりを伴って、この部屋にひとときの音色を、一層のぬくもりを与えてくれる、やさしい、やさしい、春。
 小さな紙に書かれた、春を待ちわびる言葉の羅列ばかりを見ているうちに、ドアをノックする音が静寂にこだました。私は、ほんのわずかに微笑んでから、白い布手袋の中で紙をクシャリとつぶす。それを机の横のごみ箱に落としながら、返事をする。
「どうぞ、入って」
 すると、ドアの隙間から、やさしい春風が室内へと――。

(2019/02/11)

胡蝶の夢/春待草
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