指先に踊る蠱惑


 無限の時間の中、エスは数多の書物に囲まれて過ごしている。時折訪れる旅人と穏やかな会話を楽しむ以外は、静けさの中で読書に明け暮れていた。二極化した結末から解放された彼女にとって、永く続く時間は閑やかなものだった。
 だが、時に静寂は――人の考えを拘泥させる。
 見れば見るほど心が囚われてしまうから、見ないようにと意識すればするほど見たくなる。意識しないようにと思えば思うほど深みに嵌まる。
 耐え切れなくなって、彼女は本を閉じ、白い布手袋をおそるおそる外した。
「……、っ」
 爪先に灯るのは、何度見ても息を呑むほど美しい、ターコイズブルーのマニキュア。だが、エスが息を詰まらせるのは、その色の美しさゆえではない。これを塗ったときの、否――塗ってもらったときの衝撃が頭から離れなかったからだ。
「どうかしてるわね……」
 かぶりを振り、手袋を着ける。人魚の鱗のように輝く爪が見えなくなると、浅いため息をつきながら再び本を開いた。
 けれど、どうしても、あのときに感じた痺れのような衝撃が忘れられない。もっと、と願う浅ましい欲求が、この胸から消えてくれない。このままでは、本を読むことすらままならない。
「そうね、もし――」
 もしも、この本を読み終えるまでの間にあの人が来てくれたなら、話してみようか。
 もっともっと貴方に染めてほしいのだ、と。

(2019/01/23)


Immoral106


 膝下丈のミドルブーツのかかとに手を添える。まずは右足を脱ぎ、次は左足を脱ぎ捨てる。ここで一旦、顔だけで背後を振り返る。後ろで待つ旅人は、あらかじめ頼んだ通りにこちらを見ないようにしてくれている。
 エスは、は……、と浅い息を漏らした。
 もう一度後ろを一瞥すると、自らのスカートの中に両手を入れ、腰から黒タイツを下ろし始めた。太腿のやや下まで来ると、片脚ずつ交互に、ゆっくりと丁寧にずらしていく。両脚の布がふくらはぎの膨らみを越えた辺りで、一気にするりと脱いだ。普段は感じない空気の流れが、裸になった脚を静かに冷やす。
「もう、こちらを向いてくれて構わないわ」
 おもむろにブーツを揃え、脱いだばかりのタイツを綺麗にたたみ、そうしてからようやく、エスは旅人に向き直った。
「――それじゃあ、始めましょうか」

 * * *

 ぞくぞくとした悪寒じみた感覚が、絶えず背筋を這い上がっていく。エスはできるだけ普段と同じ泰然とした態度を繕いながら、襲ってくる高揚を逃すように時折密かなため息をついた。
 旅人はエスを見上げ、彼女が旅人を俯瞰する――かつて診断のために同じような状態になったことはある。けれど今は、そのときとはまったく状況が異なった。普段なら座るはずの椅子に素足を放り出して乗せ、いつもなら本を読む机の上に座っている。そして旅人は片手にマニキュアのブラシを持ち、そんな彼女の足元に跪いているのだった。
「……ッ」
 旅人が、穢れのない素足に触れる。こそばゆさに程近くとも決定的に違うその未知の感触は、エスの全身にわずかな緊張を走らせた。
「大丈夫よ。続けて」
 すぐに向けられる問いかけの眼差しに、首を横に振りながら応じる。旅人は安堵したように目を細め、顔を下へ戻した。
 旅人が手に持っている細いブラシの先には、青色のマニキュアが付着している。偏光パールの不規則な輝きで、美しい海底のように青や緑にゆらめくそれを、そうっとエスの足の爪に乗せていく。
――優しい人。
 自分を助けてくれたことも、ペディキュアを塗ってほしいという我が儘を快く引き受けてくれたことも、気遣いも、慣れない手つきも、真剣な瞳も、何もかもが優しい。
 だというのに、旅人の優しさに胸を温かくする一方で――こうして吐息がかかるほどの距離で膝をつかせている行為や、本来座るべき机に乗っていることや、他人に晒したことのない肌に触れさせていることの全てに、例えがたい甘い痺れのようなものを感じている。
 これが世に言う背徳感というものなのだろう。あらゆる本の人物が狂い、堕ちてしまうのも頷ける。
「素敵ね……」
 手と同じく、丁寧に一本ずつ碧く染められていく爪を見ながら、うっとりとした呟きをこぼす。それを旅人は純粋にペディキュアのことだと思い、ますます生真面目に手を動かしていく。それがまた、彼女の心に強い刺激を与えた。
「――本当に、素敵」
 ああ、この冒涜は、なんという後ろめたさ、なんという恍惚感か。
 倒錯的な感情に酔いしれるエスの唇に、妖しい微笑みが人知れず浮かんだ。

(2019/01/26)

指先に踊る蠱惑/Immoral106
公式絵師さんのネイルエス絵に触発されて
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