――また、自分のことを見ている。
ソロモンは、他人の、特に女性の心の機微にはそう敏くはない。しかし、いくらなんでも視線くらいはわかる。強い視線を感じて、そっとそちらを向いた。
こうやって振り向いたときにそこにいるのは、大抵の場合はティアマトやカスピエル、あるいはジズたちといった幼いメギドが多いのだが、最近、また別のメギドが増えた。それはソロモンにとっては予想外の相手で、未だに慣れられない。
「えっと、その……何か気になることでもあるのか? 例えば、俺に話とか……」
いつもならば、振り向くと同時に相手は目を逸らす。だが今日に限っては目が合い続けていたので、ソロモンは思い切って声をかけた。
「……そうね、あるわ」
ウェパルは、
「でも、今じゃなくていいわ。違う場所で、訊きたいことがあるの」
「どこがいいんだ?」
ソロモンは腕を組み、問いかける。長く旅をした仲間だ、聞けることならできる限り叶えたい。
「本当は、海の上がいいんだけど。海の見える場所なら、どこでも構わない」
海の好きな彼女らしい返事に、つい笑顔になる。
「ああ、わかったよ。それじゃあ、それも『約束』でいいか?」
「ええ……『約束』よ、ソロモン」
嬉しそうに細められた瞳は、凛とした強さはそのままに、以前よりもずっと優しい。
「だから、あんまり『寄り道』しないでよね。あんたは放っておいたらすぐどこか行っちゃうんだから」
「わかってるって! 俺だってウェパルの訊きたいことっていうのは気になるしさ……どうせ、聞いたって教えてくれないだろ」
「当たり前でしょ。海に行くまで教えてあげない」
やりとりは、これまでと大きく変わらない。けれど、どこか今のウェパルは、前に比べてよく笑うようになった。
それを可愛くなった、などと言ったなら、いつもみたいに「バカなの?」と一蹴されるだろうか。くす、と忍び笑いを浮かべながら、ソロモンは彼女が何を訊こうとしているのかと考えを巡らせた。
(2019/05/29)
mellow/merrow
魔を統べる者、ソロモン王。彼の立ち上げた『メギド72』という旗の下、メギドたちは集い、ともにマグナ・レギオと戦う。――とはいうものの、そもそものヴィータ性か、それともソロモンの持つ善性ゆえか、彼らの関係性は王と悪魔、というよりも仲間としての意識が強い。
ともあれ、集団の中心となるソロモンは、良くも悪くも率いているメギドたちからよく見られていて、話題の中心ともなりやすい。ゆえに、冒険から帰ったばかりの彼が少し辛そうにしていたことも、そのため執事のアリトンに部屋へと押し込まれたことも、またたく間にアジト内に広がったのだった。
「アリトン……あんた、何してるの?」
夕食を終えてすぐ、ソロモンのいる部屋へ向かったウェパルが見たものは、扉の前で屈み込み、ジズと話をしているアリトンの姿だった。
「ウェパル様、実は……」
「ジズね、おにいたんのおそばでねんねしてあげるの!」
「――というご主張でございまして、ただいまジズ様の説得を試みている最中です」
「……なるほどね」
どうしようもないほどに得意顔をして、ぬいぐるみと笛を持って胸を張るパジャマ姿のジズと、冷静な顔をしながらも説得の成果が芳しくないアリトン。両者の様子を見て、勘のいいウェパルがすぐに状況を把握する。
「ねえジズ、どうしてソロモンと寝ようと思ったの?」
アリトンに倣い、その場にしゃがみ込んでジズと目線を合わせる。
「だって、ジズがおねつのときには、おかあたんがそばにいてくれたよ。おにいたんもだれかがいたら、きっとうれしいよね?」
アリトンが説得に手を焼いている理由がよくわかった。要するに、ジズは自分のためにソロモンと寝たい、と言っているのではない。ソロモンのために、傍についてやりたいと言っているのだ。純粋なジズの、健気で優しい気持ちを無下にしきれなかったのだろう。確かに強敵である。
「そう、優しいのね」
微笑みを向けると、えへへ、とジズが頭上の獣耳を揺らして喜んだ。
「でもね、ジズ。もしも一緒にいたジズに熱が移ったら、きっとあいつは悲しむわ」
「おにいたんが……かなしい?」
「ええ。ソロモンはジズのことが大切だから、すごく悲しむと思う」
さっきまでピョコピョコと動いていた耳が、しゅんと下がってしまう。ちょっと面白い、などと思ったことを隠して、ウェパルはその頭に手を置いた。
「だからね、あいつのことは私に任せなさい。私なら、ジズよりも身体が丈夫だから」
ジズが、ウェパルの目をじっと見つめる。ややあって、こくん、とうなずいた。
「うん……おねえたん、おねがいね」
返事の代わりに頭を数回撫でる。ジズはそれで納得したのか、最後に扉を眺めてから、自分の部屋に向けて廊下をぽてぽてと歩いて行った。
「――それでは、よろしくお願いいたします」
黙ってやりとりを見守っていたアリトンが立ち上がり、ウェパルに向けで折り目正しく頭を下げる。
「何でそうなるのよ」
「ウェパル様が、『私に任せなさい』と仰っておいででしたので」
「バカなの? あれは子どもへの方便ってやつでしょ」
「ええ、理解はしております。ですが、私は一旦ジズ様を寝かしつけてまいりませんと、あのままでは寂しい想いをされますので」
あからさまに嫌そうに双眸を細めるが、アリトンの落ち着いた言動に変化はない。逆に、子どもを理由に出されたウェパルがぐっと言葉を飲み込んだ。
「……わかったわよ。で、何をすればいいの?」
「ソロモン様は疲労による発熱ということですが、少し汗をかき始めておりまして。時折様子を見て拭ってもらうなどしていただけると」
加えていくつかの依頼をして、アリトンは最後に深々と頭を下げる。
「ジズ様が深く眠られましたら、すぐに戻りますので」
それだけ言い残すと、アリトンはジズの後を決して走ることのない早足で追いかける。残されたウェパルは、「面倒くさい……」と、口癖じみた言葉をつぶやいてから部屋の中へと入っていった。
部屋の中は、しんとしている。
あまり賑やかな空間が好きではないウェパルにとっては心地よいほど静かで、その静けさは時としてソロモンの荒い息遣いを容易に響かせた。
アリトンは汗をかき始めたと言っていたが、苦しげにしている様子を見るに、もしかして熱が高くなってきたのかもしれない。
できるだけ音を立てないように留意して、ウェパルはベッドへ近づく。ふと、モラクスやシャックスを連れずに一人で来てよかったと思う。二人がいたら、部屋に入った途端、寝ているソロモンに抱きついていたかもしれない。――その、彼らなりの愛情表現はおおよそ迷惑だが、自分にはできないことだけに、時にひどくまぶしくも映る。
「……ちょっと、寝てるの?」
控えめにかけた声に、返事はない。
そっとソロモンの額に手を当てると、いささかの熱は持っているものの汗をかいてしっとりとしていた。事前に聞いていた通り、サイドテーブルにあるタオルで額を拭う。
アリトンには見抜かれていたのかもしれないが、ウェパルは元々、ソロモンの様子を見るためにこの部屋へ訪れていたのだ。思ったよりも症状は深刻ではない様子を目の当たりにして、少し安心した。ほっとしたところで、おもむろにベッドサイドの椅子へ腰かける。
「ハァ……っは……」
それでも、ソロモンの呼吸は時折荒くなる。
――ああ、そういえば、あいつも初めて会ったとき、こんな風に息も絶え絶えみたいな状態だったわね。
遠い昔の思い出が、胸に宿る。
ウェパルは立ち上がり、ソロモンの顔をまじまじと見下ろした。愛したヴィータに少しだけ似た顔は、かつての思い出や懐かしさや恋しさを蘇らせるためだけではない。別の感情もまた胸の奥底から湧き上がってくる。
「ソロモン……」
今のウェパルの心で息づく名を、小さく唇に乗せた。
反応がないことを確認して、恐る恐る手を伸ばす。もう二度と続きが紡がれることはないと、ウェパル本人ですら諦めかけていた物語に再び生を与えた彼の、その頬に触れる。
手のひらがまだ火照った肌の熱を奪っていくうちに、ソロモンのまつ毛がかすかに揺れた。
「ん……ウェパ、ル……?」
「……っ!」
急に目を覚ました相手に驚いて、触れていた手を咄嗟に離しそびれてしまった。あっ、と慌てて手を退こうとしたが、あろうことかソロモンはウェパルの手の上に自らの手を重ね、そろりと撫でる。
「ちょっ、あんた、なにして……ッ」
思いも寄らぬ行動に、不覚にも上擦った声が漏れた。
「……先に触ってたのは……オマエだろ」
「んなっ……」
ソロモンの声にはいつもの覇気はなく、意識もはっきりとしているわけではなさそうだったが、図星だけは確実に突いてくる。苦情を言いかけたウェパルは押し黙り、やむなく頬に触れたままの姿勢で固まった。
「でも、よかった……」
「……何の話?」
ひどく遠慮がちに手の甲を撫でていた手が、今度はウェパルの顔の前に伸びてくる。彼とは異なる理由ではあるが、彼と同じかそれ以上に熱を持った頬は、その手のひらを拒むことなく受け入れた。
「ウェパルが、ここにいてくれて……」
言いながら本当に安堵した微笑みを浮かべたものだから、ウェパルは涼しげな瞳を大きく見開いた。
「そばにいてくれて、……うれしい」
頬に置かれた手が、まるで愛おしむみたいに上下する。
その手から少しずつ力が抜けていき、ベッドの上へゆったりと落ちると、ソロモンは再び眠りに就いたようだった。
『おにいたんもだれかがいたら、きっとうれしいよね?』
ジズの言葉が脳裏を過ぎる。
転生前には実感できなかった感情だが、今のウェパルにはヴィータとして過ごした17年間の記憶と感情がある。辛いとき、そばに誰かがいてくれることの安心感や喜びを知っている。
しかし、それを自分が、他でもない彼に与えたということへの喜びがこれほど望外であることは、初めて知ることだ。
「はあ……面倒くさい」
ウェパルは、いつもの言葉を吐き捨てた。――だが、ソロモンの頬を触れたままだった手をそっと移動させて、何度も、何度も、額から毛先にかけていじらしいほどに優しく頭を撫でる仕草が、全ての想いを物語る。
「……いい? アリトンが戻ってくるまでの間よ」
誰に言い聞かせるためよつぶやきだったのか。その声は、凪いだ海にも似た穏やかさをもって、夜のしじまへと吸い込まれていった。
(2019/05/31)