唐突に電話がかかってきたかと思えば、出るのが遅いと文句を言われ、先日提出した書類の出来が悪いとお叱りを受け、一時間以内にファーレイの執務室に来るようにと指示をされた。その上、
「呼び出しておいて返事がないって、どういう……」
ノックをした執務室は沈黙を保っている。
もしや到着が遅すぎただろうかと、スマートフォンを取り出して、時間を確認する。だが、まだ電話を切ってから45分ほどしか経過していない。一時間以内、という指定に対してはちょうどいい頃だろう。
もう一度、今度はやや強めにドアをノックする。やはり返事はない。中からは人の気配すら感じられない。
「今日はケンさんも不在だって言っていたし……ゼンに直接電話してみようかな」
持ったままでいたスマートフォンのロック画面を解除した――瞬間、妙な音を聞いた。ファーレイには似合わない、というよりも、ゼンの執務室からは聞こえる音としてはまったく想定外のものだった。
「……猫の鳴き声?」
ううん、まさかね。そうつぶやくと、まるで計ったかのように再び鳴き声は聞こえてきた。
「間違いない、猫だ!」
嬉しくなって、咄嗟にドアを開く。普段であれば不機嫌な顔でゼンが座るデスクはやはり無人で、代わりにその上には白猫がちょこんと乗っていた。ここが執務室であることを半ば忘れて、デスクへ近寄る。
「かわいい~!」
猫は、こちらを見ると、にゃあんと大きな口を開けて一鳴きした。
「もしかして、ゼンが猫になっちゃったの……?」
そんな突拍子もない考えがふと頭を過ぎる。だが、時間を止めたり空間を折りたたんだりできるEvolverが存在するのだ。それなら、人を猫にするEvolverだって――
「……いくらなんでも、いるわけないよね」
自分の考えに苦笑しながら、猫に向けて手を差し出す。ゴロゴロと喉を鳴らしながら額を擦りつけてくる人懐っこい姿と柔らかな感触で、完全にノックダウンされてしまった。もう完全に仕事中だったことが頭から消えていく。
「そうだ!」
仕事モードでなくなった頭は、別ベクトルの冴えたアイディアを連れてくる。
鞄からハンカチを出して、猫の首にゆるく巻きつけた。ストライプ柄のハンカチをネクタイ風に結ぶと、それでなんとなくデスク上で仕事しているように見えるから不思議だ。そして何より非常に愛らしい。
「ふふっ、本当にゼンが猫になったみたい」
ネクタイを結んだ白猫を持ち上げ、胸元へ抱き寄せる。にゃあ、と小さく鳴いた顎の下を指先で撫でた。ゴロゴロと幸せそうに喉を鳴らして、もっと、と催促してくる姿に目尻が下がったのが自分でもわかった。
「あのCEO様も、たまにはこんな風に素直に甘えてくれたらいいのにね」
「――俺が、何だ?」
唐突に、背後から低い声が響いた。その途端、オフモードだった頭が一瞬で現実に戻ってきた。血の気の引いた顔で後ろを振り返ると、この部屋の主が片手に紙袋を抱えてドアの前に立っている。
「ゼン……。えっと、その……そ、そう! どうしてあなたのデスクに猫がいるの?」
苦し紛れの問いかけだったが、ゼンはこうした質問をあまり無視しない人だ。自分のデスクへ歩きながら、「迷い込んで来ただけだ」とつっけんどんに答える。
「迷い猫のために、わざわざ餌を買ってきてあげたの?」
長身のゼンが隣をすれ違った拍子、ちょうど目線の高さで紙袋の中身が見えた。底の方まではわからなかったが、上には猫用の缶詰が入っている。
「必要なものは買ってきてやった。あとはお前が面倒を見ろ」
「えっ……」
ゼンが目の前に紙袋を置き、当然たる顔で言い放つ。
「そのためにお前を呼んだんだ。ケンが里親を見つけるまでの間だ。そのくらい、不器用なお前でもできるだろう」
「えっ?!」
ケンが不在のため、自身で買い出しに行ったのだろう。それがよほど面倒だったのかやれやれといった様子でデスクに座り、頬杖をつく。あまりのワンマンっぷりに、開いた口が塞がらない。
「安心しろ。お前にだけ任せて放ったらかしにするような真似はしない」
鋭いゼンのことだ、こちらが納得のいっていないことに気づいているのだろう。切れ長の眼差しが向けられたかと思うと、座ったばかりの彼が立ち上がる。
「今夜から、行ける範囲でお前の家まで面倒を見に行ってやる」
不意に、怜悧な顔が近づいてくる。突然縮まった距離に、頬がかあっと熱くなった。
「その猫と――お前の、な」
右耳に落とされる低く甘い囁きに、心臓が大きく跳ねる。
ゼンは、不敵で、艶めいた微笑みを浮かべたまま離れると、椅子に腰を下ろし、すぐさまいつもの愛想のない表情に戻った。
「わかったらさっさと連れて帰れ。俺はお前と違って忙しいんだ」
最後にはお決まりの言葉を言い捨てて、視線でドアを示す。言われるがまま猫と紙袋を抱えて執務室を出て少し歩いたところで、嵐のように過ぎ去った今の一連の出来事が鮮明によみがえる。不満と憤りと恥ずかしさでぐちゃぐちゃになって、床にずるりと崩れ落ちた。
腕の中では、愛らしいCEOにゃんこがご飯を催促してみゃあみゃあと鳴き続けている。けれど、耳に残る囁きが何度も何度もリフレインして、腰が抜けたまま少し動けそうになかった。