体の内側から外側に向かって叩きつけるような、強烈な鼓動で目が覚める。
悪夢だった。あれを悪夢と呼ばねば、何を呼ぶのか。
燃えていないものなどない地獄のごとき炎の中、ただ一人、幼い少年だけが命を繋いだ。彼は救われたのだ。だが、それが――それこそが、自分だけが生き残ってしまったという絶望の始まりだった。
千子村正がこの下総国に現界したのは、およそ例外中の例外である。
本来ならば、英霊になりうるほどの名声や信仰を受けた身ではない。幻霊としても届くかどうかという霊基は、二つの後押しによって半ば無理矢理この地に召喚されたのだった。
まるで大人が突然そこに産み落とされたような感覚は、どことなく自分の存在意義や存在そのものが希薄で、なんとはなしに全てが他人事に思えるときもある。
彼が召喚をなし得た理由の一つでもある、この依り代たる青年のことですらも、何も知らなかった。
縁もゆかりもなければ、青年の生い立ちを知るわけでもない。おそらくは、在り方と背負った業が似ていた――ただそれだけの、しかしながら資格としては十分すぎるその理由で、千子村正はこの青年を器とした擬似サーヴァントとなったのだ。
重ねて言うが、村正は、この青年のことを何も知らない。
だが、この肉体で現界したのを機に、見たことなどないはずなのに、知らないはずなのに、どこかの街がひどく燃える夢ばかりを見るようになった。
夜ごと、まるでその場にいるかのごとく身も肺も業火に焼かれ、生きることを願い、生き残ることを恐れる。
助かっても、助からなくても、炎と絶望しかない地獄絵図だ。
村正はサーヴァントであるがゆえに通常の人間よりも体力に優れているが、しかしながら実体を持っている以上、食事や睡眠は欠かせない。目覚めた直後には息の吸い方を忘れるほどのその悪夢は、村正の眠りを夜な夜な削り続けた。
ある昼、いささか呆とする村正に、幼い少女が声をかけた。
「おじいちゃん、どうかしたの?」
下総国に紅い月が浮かぶとき、化生の群れが跋扈する。この幼いぬいと、その弟である赤ん坊の田助は、両親を化生に殺された姉弟だった。運良く村正が助け、その後も借りた庵で面倒を見ている。
「いや、なんでもねェよ」
そんな幼子に心配をかけるとは手前も情けないと、かいた胡座の膝をぽんと叩き、立ち上がった。
やおら向かった鍛冶場で、火床を熾す。慣れた手付きで石を掻き、
しばし村正は、赤々とした火床を眺めた。
夢の中の炎はもっと禍々しかった。おそらく自然のものではなく、魔術の類によるものだ。だがそれでも、ほんの一時、火床の炎が悪夢のそれと重なった。重なり――不意に、合点がいった。
これは、“記憶”だ。
いつの時間軸にか、どこの世界線にてか。“かつて”か、“いずれ”か、
そして村正自身にも、自分だけが地獄を逃れてしまった、というその罪悪の記憶には、思い当たる節があった。
だから、この霊基は、この器にこそ宿ったのだ。
「……なァ、坊主」
目を細め、自らの依り代となった、見知らぬ青年に語りかける。
「それが、おまえさんの見た地獄かよ。テメェはそンな地獄を味わい、呑み込み、それでも生きて、終いにゃ抑止の何とやらにこき使われることを決めたのか」
気っ風のいい語調にはひとかけらの憐れみはなく、琥珀色の瞳には余すところのない情を浮かべた。
そうして一度目を閉ざし、ややあって力強く見開く。整えた呼吸のまま、火箸で鋼を挟む。火床でよく熱し、赤く燃えたそれを温い水で急速に冷やすと、水入れがジュウ、という音を立てた。
かの夢の業火は、鋼と同じようにはいかない。水で冷やすこともできず、消えることも、なかったことにもできはしないのだ。だが、その焼入れ作業は、いっそ儀式にも似た神聖さをもって、千子村正という男に覚悟をもたらした。
「ハ、しゃあねえな……現界する片棒を担ぎやがった礼だ。その業――
迷いなく言い放つ唇に大胆不敵な笑みを宿して、稀代の刀匠はもう一度、鋼を熱する。
火箸を呑み込む火床が悪夢の業火と重なることは、二度となかった。