愛を知らぬ金糸雀
「余は――愛を知りたい」
かのローマ皇帝ネロ・クラウディウスは、顕現して日もそこそこに、藤丸立香の元を訪れ頬を赤らめた。
彼女に、特異点となりつつあったローマでともに戦ったときの記憶はない。ただ、記憶も事実もないだけで、ともに死線をくぐり抜けたあの戦いは確かな真実だ。
「余は国を愛した。国は余を愛した」
変わらない自信に満ちた滔々とした話しぶりが懐かしい。
あのときは、人と人であった。位の差はあれど、そこに上下の関係はなかった。今は、魔術師と英霊の関係だ。上下などなく付き合いを、とマスターは言うが、命令を与えるものと実行する者としての差はたしかに存在する。
「だが、しかし」
ふと伏せられた目が、可憐な面立ちに影を落とす。その表情は、歴史上の皇帝ネロが行った政治など想起させぬほどに美しい。
「余は、個としての愛を知らぬ。愛する者に愛される喜びを知らぬ」
ネロはそこまで言い切って、顔を上げた。まっすぐにマスターの顔を眼差す。
「だから、余は愛を知りたい。奏者に教えてもらいたいと、そう望むのだ」
少女のよう微笑みはにかむその顔は、記憶にあるネロの気高さとはあまりに異なる。汚れることを知らぬ無垢な笑顔は、望むがままに与えてやりたいと思うに相応しいものだった。
だが――たっぷりと時間を置いてから、魔術師はネロの両の手を取った。
綺麗だった。剣を握り、敵をなぎ倒し、臣下に檄を飛ばす手は場数を踏んではいるが、それでもその神聖な麗しさはまるで失われていなかった。
「ネロは光だ。前を射し、確かな未来を兆す、眩いばかりの光」
「む、改めて言われるといささか照れてしまうが……そうであろう! 余はローマに、世界にあまねく輝く光!」
マスターからの思わぬ褒め言葉に、幾分頬を紅潮させながら胸を張る。そのネロへ言い含めるようにゆっくりと話しかけた。
「だからこそ、この手で穢すことはできない」
「な……何ゆえ! 余は、そなたにならば――」
「そこから先は言ってはだめだよ、ネロ」
あの時代、誰もが美しいと讃えた皇帝からの寵愛は誇りに思う。ネロは心身ともに魅力的だった。と同時に、あまりにも蠱惑的にすぎる。
「運命は、キミに愛を教えなかった。なら、それをオレが教えることはできない」
詭弁という自覚はあった。尊ぶべき美しき皇帝の愛に見合った愛を返す勇気が持てずに、ただ逃げ道がほしいだけの言い訳だ。
英霊のマスターだからとて、はたしてこの神聖な皇帝の――少女の全てを奪うことなど、許されるはずがない。
「余は、ローマ帝国第5代皇帝ネロ・クラウディウスその人である!」
罪悪感に苛まれる魔術師の前で、ネロは大きな声を張り上げた。その誇り高さは、ローマでの出会いを思い出させる。
「余は時代の荒波を乗り越えた! 逆境も困難も節制も中庸も――運命すらも! あらゆる事物がこの薔薇の如き余の前には枯れ伏すのだ!」
言葉を一旦止めて、穏やかに微笑む。
「ふふ、意味がわからないといった顔をしておるな。今はそれでよい。だが、ゆめゆめ忘れるな」
愛すべきマスターの元へ顔を寄せたネロが、唇をほんの一瞬触れさせる。
「このネロ・クラウディウスの心を奪ったのはマスター、そなただ。そして余は、余が欲するもの全てをこの腕に抱えてみせよう!」
高らかに宣言した後、ネロは背を向けて揚々と歩き出す。いつもと同じく胸を張り、高潔な空気をまとい、前を向いて。
ただ――ただ。その耳が薔薇のように赤いことに気がついて、立香は唇を手で覆い隠す。
こんなことをされて、あんな顔をされてしまっては、彼女の魅力に平伏す以外なくなってしまう。にも関わらず、はあ、と吐き出した息は、思ったほど困惑を含んではいなかった。
ふと鼻腔をくすぐる残り香は、ほのかに甘い。
薔薇の口づけは、迷いを振り払い、運命も時代も乗り越え、愛を紡ぎ出そうとしていた。
弓ギル召喚祈願
「雑種らしく足でも舐めてみよ」
図らずも跪く格好となっていたわたしの眼前。あくまでも居丈高に差し出されたのは、太古の英雄の靴だった。
「どうした。我の力が必要なのであろう?」
黄金に輝く尖ったつま先が、頬を軽く突く。
マスターとサーヴァントの関係として、ここで彼、英雄王ギルガメッシュに膝をつくことが正しいとは思えない。思えないが、それでも――人類史を守るために、この英霊の力が必要なのは間違いなかった。
ぎり、と口の中で歯が悔しさに悲鳴をあげる。
「貴様の矜持など安かろう。それとも、我を喚び出した目的を矜持のために捨てるのか? それもまた一興よな」
腕を組んだまま見下ろす視線は、心底愉しげだった。
悔しいが、ギルガメッシュの言葉は真理だ。今、戦力の不足するカルデアを立て直すためには、プライドなど必要ない。個人のプライドも、魔術師としてのプライドも、マスターとしての立場も、全て必要ない。全てかなぐり捨ててでも、世界を救ってみせる。
「――よかろう」
舌が、黄金色の靴に触れる寸前、舐めるはずの足がすっと退いた。訳のわからないまま視線を上げたわたしに、皮肉な笑みが向けられる。
「凡人であれど、目的のために足掻く姿はなかなかの娯楽よ」
顎がクイと動き、立つことを促す。あくまでも高慢な態度だったが、しかしどこか雰囲気が幾分和らいだようにも感じる。
「貴様の覚悟は確かに見たぞ、雑種。我の力、わずかなら貸してやる」
まだ現状が理解できてはいない。いないが、ただ、高笑いをするこの英雄王が、想像以上の天邪鬼だということだけはわかった気がした。
魔猪ばかりが出てカッとなって書いたはなし
今夜は猪鍋である。
召喚サークルから幾度となく飛び出てきた何頭目かの猪を見て、マシュ、ドクター、そしてわたしが無言になっていたとき、気まぐれで同席していた両儀式が一言こう言った。
「今夜のおかずだな」
なるほど、それはいいと色めき立つドクターはさておいて、猪なんてどうやって食べるのかと考えていると、ダ・ヴィンチちゃんが「それなら鍋がいい。この世の全ての食物は、焼くか煮るかでどうとでもなるものだよ」と語る。
「な、なんだか妙な説得力があります……!」 うんマシュ、わたしもちょうど今そう思ってた。
ドクターとダ・ヴィンチちゃんは、酒を探しに肩を並べて歩いて行った。こういうとき、我がカルデアの二大賢人は素晴らしい連携を見せる。
「それにしても、こんな禍々しい色した猪なんて食べられるのかな……」
我ながらなんとも現実的な呟きだ。フォウが横で同調するように鳴いたので、きっと同じ不安を抱えているに違いなかった。ところで、フォウは獣肉を食べられるのだろうか。
「ま、大丈夫だ。任せろ」
ぽん、と私の肩を叩くのは式。吊り上がった目を細めて微笑んでみせる。愛らしい男勝りの少女は、猪を眺めて頼もしく告げた。
「オレのナイフで捌いてやるから」
……いや、決して捌き方を心配したわけではないんだ。やる気たっぷりの式は珍しいので言わないけど。
――後日談。
「あっ、先輩、今から召喚の儀をするんですか?」
「魔力媒体も数が集まったからね」
「ドクター、先輩が召喚を行うそうです!」
「フォーウ!」
あれからわたしがサーヴァントの召喚に挑もうとすると、なぜかカルデアのみんなが宴会の準備をするようになった。今夜のご飯もまた猪鍋かなあ……。
うつくしきけもの(召喚記念)
「もう二度と逢うことのない人だと思っていたけれど……あなたは、また私を喚んでくれたのね」
“彼女”と同じ貌で、声で、なのに彼女とはまったく異なる微笑みで。両儀式は、世界を――世界に生きる召喚者を、その涼やかな瞳でまなざした。
“彼女”よりも長い髪の毛を、細い指先で耳にかける。無駄のない、しなやかな動きに着物の袖が音もなく静かについていく。その、無音の世界で何を聞いたのか。式は「……そう」と、腑に落ちたように小さくささやいた。
「雪が降っているのね。……どうりで」
ひどくたおやかに笑った意味は、本人以外には知り得ないことだったが、ただ、その言葉が決して悪い響きではないことはわかって、立香はつられるように表情を和らげた。
「雪の誘うひとときの夢だとしても、この出会いはうつつのもの。マスター、どうぞよろしくね」
握手を求められ、立香が応じる。
顕現した美しき獣の手は、雪のように白く、しなやかだった。
雪の日に逢う
「貴方は特別な人間だけど、でも、普通の人だった。……そうね、少し“彼”に似ているかもしれない」
ひどく珍しいことに、今夜の雪はしんしんと静かに降り積もっていく。
「だけど、普通だからこそ、私は貴方に力を貸そうと決めたのよ」
窓の傍で、雪を見つめながら今にも消えそうな儚さと白い着物をまとった女性が、息を吐き出すように呟いた。
立香も彼女に倣って外を眺める。
思えば、彼女が召喚に応じてくれた日も、こんな静かな夜明け前だった。夢か現実かもわからないようなしじまの中で、夢のような彼女が自分の手を取ってくれたのだった。
「あの子も、同じ。本当に、私も式も、“彼”や貴方のことが放っておけないのね」
くすくすと笑う姿は、死を視ることのできる“彼女”とは似ても似つかない。ただ、時折こちらを見て優しく細める瞳は、同じものだった。
「また、こうやって話せるかな?」
影法師としての彼女に戦場で頼ることはあれど、こうして話すことは奇跡のようで――立香の声は、どこか自信なさげに響いた。
「ええ、貴方が願うなら、きっと」
言いながら微笑んだ両儀式はまばたきの間に消えて、気がついたときには、窓の外にはいつも通りの吹雪があった。
消えていく記憶、増えていく記録
日記を書いている、という話を聞いたのは、つい最近のことだった。おそらくは話した本人ですら、私に話した、という記憶はもう失っているだろう。いや、その事実すらも日記につけているのかもしれないが――ともあれ彼が憶えているにせよ憶えていないにせよ、こちらだけは彼との記憶を明確に憶えているのだから、なんとも奇っ怪なことだ。
「エミヤ、入るよ」
どれだけ住もうとも生活感が出てくることのない彼の部屋を、夜もずいぶん更けてから訪れた。
「マスターか」
ベッドに腰かけてサイドテーブルで書き物をしていたエミヤが、無表情で顔を上げた。
彼は私をマスターと呼ぶが、私のことは毎日憶えているのだろうか。それとも朝になるたびに日記を読んで確かめているのか、それとも、一応サーヴァント契約ゆえに判別がつくのだろうか。訊いて確かめる勇気は、さすがにない。
「こんな夜半に何の用だ? 過保護なサーヴァントたちにドヤされるのは俺でね、少しは配慮してもらいたいものだ」
彼らしい、いつもの皮肉だ。
日記をつけているという事実とその理由を聞いてから、私は彼の言葉のすべてに心力を労するようになった。
その言葉は記憶からのものなのか、記録からのものなのか、今の想いそのものなのか、過去の想いの欠片なのか。自分の言葉や存在は、彼の中にどれだけ残すことができるのだろうか。それを知るために、彼の表情のすべてを見定めようとしている。
「日付、もう変わった?」
唐突な私の問いに、エミヤが時計を確かめる。
「……ああ、そのようだ」
「そっか。今日って何の日か知ってる?」
「さあね」
「去年の今日を【それ】で調べてみて」
書き物をしていた手帳、つまり例の日記を指差すと、彼は何も言わずに慣れた手つきで一年前の今日のページを探し出した。
「ほう。アンタが俺を喚び出してから一年か」
記録を掘り起こした彼の声には、刹那の感慨があった。
「だが、それがどうしたって言うんだ。ただの代わり映えのしない一日だろう。ああ、それとも盛大なパーティーでもするのか? それでもいいさ、アンタが望むなら」
「何もしないよ。ただ……」
口を開けば皮肉めいたことばかり言って嗤う彼のその顔を、私は両手で挟んで、自分の方に向ける。元からこちらを向いてた眼差しは、何の抵抗もなく私の目を貫いた。
「今の私の面構えは、エミヤにどう見えているのかなって」
彼を召喚した一年前、開口一番に「ひどい面構えだ」と告げられたのだった。だから、一年経った今、あなたの哀しい瞳に私がどんな風に映っているのかを訊いてみたかった。
「そうだな。幾分マシになった、とでも言いたいところだが――」
手に持っていた日記帳をサイドテーブルに置いてから、エミヤが両手を私の両腕と交差するようにして持ち上げる。お返しのように私の頬をやんわりと挟んで、
「初めて会ったときよりも、アンタは綺麗になった」
魔性の女に出会う前、自身に絶望する前にはきっとそこに在ったであろう穏やかな目を、ほのかに細めた。
その微笑みに彩られた言葉は、記録ではなくて記憶によるものだったと自惚れさせるには充分で――私は、鼻にツンとした痛みを感じながら、ベッドに座るエミヤの頭を抱き寄せた。
しあわせなねむり
アパートに来る前から嫌な予感はしていた。何しろ彼が熱中しているオンライン対戦ゲームの拡張パックが昨日発売になったのだ。ただでさえ、魔術のあれそれから離れてしまえば決して褒められた生活をしていない彼が、そんなものを手にしてしまえばどうなるか、なんて、かの天才軍師でなくてもお見通しというものだ。
彼のアパートに足を踏み入れ、そろりそろりと階段を登り、目的の部屋を訪れる。
「お邪魔しまーす……」
玄関を入ると、相変わらず雑然とした部屋が出迎える。その雑多な室内の上辺に、昨日の昼にはなかった小包の包装紙があった。これはいよいよ疑いようがない。
いつもなら(アパートに辿り着くまでには魔術結界の揺らぎで訪問者がいることや、それが誰であるかなど理解しているくせに、部屋に入るまで決して反応せず、直接顔を合わせてからようやっと)、「ああ君か」なんて言ってくれるのだけど、今日に限ってはそれすらない。
ゲームの置いてある部屋は、モニターだけが健気に光っていた。当の本人はと言えば、ソファで崩れている。いわゆる寝落ちである。
「先生、寝てるんですか?」
聞こえてなどいないとわかっているけど、一応声をかける。
わたしは――返答のない想い人の姿にため息をついて、ソファにもたれかかるようにして地面に座った。
「……先生のばか」
今夜は師弟としてでなく、カルデアにおける主従としてでなく、あなたを慕うただ一人の女として会いに来たというのに、ゲーム以下のこんな扱いをするのだから、本当にこのロード・エルメロイⅡ世という男性にはほとほと困りものだ。(まあでもきっと向こうからしたら、君のような魔術の素人にはほとほと困っているとでも言うのだろうけど) 座面からだらしなく落ちている手に握られたコントローラーをそっと取り、自分の手を重ねる。指と指とを交互に重ねると、吸い付くように彼はそれを握り返してきた。
「先生の、ばか」
二度目の悪態は、ゆるんでしまった唇から。
自分でも単純だなあと思うけど、こうして外から訪れた人間に見せている無防備さも、求めれば返してくる温もりも。わたしがそれらを許されているということは、紛れもない幸福なのだ。
眠る先生の胸に頬を寄せて、とろけるようにまぶたを閉ざす。
どうか、素敵な夢を見られますように。
あなたも、わたしも。
星の導き
「――
かつては、死の矛先から必死で逃れた先の土蔵で、術式も儀式も組まずして英霊を召喚した。最優と名高いセイバークラスの彼女は、彼の身に宿っていたものを触媒として呼び声に応じてくれたのだ。ただの偶然のような召喚だったが、衛宮士郎はそれを運命だったと、今なお胸を張れる。
当時のことを思い出すと、懐かしさと愛しさに頬が緩みそうになるが、今は召喚の呪文を既に紐解いている。魔力を酷使する激痛が全身を襲っている今、集中を切らせば己のあまねくすべてを容易く持っていかれてしまうだろう。
あのときの自身は本当に未熟で、何も知らなくて、迷惑ばかりをかけていた。
だが、今度は違う。心身ともに鍛えた。知識を蓄えた。師の下、英国で正式な魔術を学んだ。魔術工房も整えた。左手の甲に残っていた傷跡のような令呪には、再び魔力の色が宿った。
時は――満ちた。
「抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ――!」
術が成る。夥しい量の魔力が全身から抜け出し、閉じた空間を充たす。令呪に苛烈な痛みが走る。膨れ上がりすぎて収まりきらない魔力が工房を構成する様々なものを揺らし、そして、
「私はランサー。この最果ての槍とともに、今再び貴方の声に応えましょう、……シロウ」
――その日、青年は運命と再会した。
再び星を巡る運命
魔力が魔法陣の中央に集約し、英霊がまばゆい光とともに現世へ顕現する。思わず目を閉じた士郎の鼓膜を震わせたのは、懐かしく、透き通った声だった。
彼女とともに駆け抜けた第五次聖杯戦争のことが――彼女と心を通わせた夜の映像が、閉じていたまぶたの裏を駆け抜けていく。その声も、思い出も、彼女の存在そのものが、成長した今でも士郎の胸を強く揺さぶる。
「……セイバー」
確かめるように呼んで、静かに、彼女のいる世界をまなざす。かつてと変わらぬ意志の強い二つの琥珀色は、前回の召喚時とは異なり、白馬にまたがった運命の人を映した。
「すぐに貴方とわかりました、シロウ。再び貴方と出逢えるとは思っていなかった」
誇り高く伸びる背筋も、冬の夜によく似合っていた凛とした声も、あの日々と何も変わらない。
そう、彼女がランサーと名乗ったことも、ライダーよろしく馬上にいることも、冬木で出逢ったときには可憐な少女然としていた外見がいささか豊満になっていることも、本質が以前と何も変わらない以上は一切気にも留めない士郎にも、たったひとつだけ腑に落ちないことがあった。
「どうして顔を隠しているんだ、セイバー」
現れた彼女は、獅子のような兜を被っていた。
月光をまとった金砂のごとき髪も、胸の奥まで見通すような緑の瞳も、あの運命の夜に一目見たときに心を奪っていったすべてが兜に覆い隠されてしまっている。それが心底もったいなくて、士郎は召喚の名残でまだ感覚の薄い手を、馬上へと伸ばした。
「マスター。今の私はセイバーではなくランサーです。どうか、そのようにお呼びください」
毅然とした言葉に、頬の寸前まで届きかけていた手が止める。まるで、マスターとサーヴァントとして一線を引いていた頃の彼女のようだった。だが――それだけで、彼女に触れたいと思う士郎の気持ちは止まらなかった。
「なあセイバー、顔を見せてくれないと令呪を使っちまうぞ」
衛宮士郎という男はいつでもまっすぐで、好きな相手に脅しをかけられるほど器用ではない。そのことをよく知る彼女は兜の中で唇を尖らせ、浅く嘆息した。
「まったく貴方は、いつも私を困らせる……」
咎める気のない諦めた笑いとともに、銀の鎧と獅子のごとき兜が解除される。露わになった美しいかんばせをまばたくこともせずに見つめた士郎は、そのまま待ちわびたように彼女の頬に指を這わせた。
魔力だけではないぬくもりが、愛しさが、触れた指先からほとばしっていく。
ああ、と言葉にならない感動が唇からこぼれ落ちたのは、二人ほぼ同時のことだった。
「……シロウ、少し背が伸びましたね」
「それはお前もだろ」
第五次聖杯戦争のときよりも少し霊基が成長した彼女は、それでも、確かにアルトリアの顔で穏やかに微笑み――士郎の手に自らのそれをそっと重ね、ぎこちなく頬をすり寄せた。
「おかえり、セイバー」
「はい、ただいま戻りました、シロウ」
たとえ、この再会が儚いものであったとしても、二人は、この運命を後悔しない。
朝有紅顔
ひらり。花弁のように舞う。
ひらり。羽根のように踊る。
ひらひら、きらきら、青空と萌黄の狭間で羽ばたく小さなあの体が、どれほど美しく見えただろう。
かつて友だった彼女は、小さく、か弱く、短命だった。それらがすべて己と比べてのことだと教えてくれたのも、彼女だった。
どれほど他の種族から儚く見えようとも、彼女自身は精一杯生き長らえ、そして死んでいったのだ。
その生き様は、きっと、
「おはようブリュンヒルデ、いい朝だな」
柔らかな声音で、緋竜は眠りから覚める。そして、自分を焦らすようにして網膜とまぶたをゆっくりと開いていく。
少し白みがかった空、まばゆいばかりに射し込む陽光、朝日を浴びて喜びと生に溢れる草花。そしてその中で、彼が金色の髪を揺らして微笑んでいる。
この瞬間が、緋竜はとても好きだった。――いや、とても好きになった。
「もうっ! その呼び方じゃ、イ・ヤ・よ!」
ぷい、と顔を背けると、我が主と心から認めた唯一の人が、一瞬だけはたと目を見開き、その後ですぐに優しい笑顔を浮かべた。
「おはよう、ムム」
ああ、なんて愛おしいのだろう。
火山の中にいるだけでは決して見られなかった、この世界。差し伸べられた手を取らなくては決して味わえなかった、この感情。それを与えてくれた、彼。そのすべてに胸が満たされていく。
「ええ、おはよう」
彼は人間だ。自分より小さく、弱く、短命の種族だ。すぐに傷つき、すぐに死んでしまう脆弱な生き物だ。
死別とは、虚しく悲しいものだ。それを、かつて友を見送ったときに知った。
蝶も人間も、長命のドラゴンからすれば一瞬で燃え尽きる命だ。もう失った命を悲しむことはしたくないと心底から思っていたはずの緋竜は、彼に出会って、そのひたむきさに恋をした。
恋が、緋竜を変えた。
例えどれほど人間の命が儚かろうとも、彼の刹那の生涯を見届け、愛したい。その一心で、意地もプライドもすべて捨てて、棲み処にしていた火山を下りた。
だって、彼の生き様はきっと――彼女と同じで、美しく、誇らかに違いないのだと確信があったから。ならばそれに寄り添うのが、恋を知った女の生き様だ。
「今日も、きっと素敵な一日にしましょうね、ダーリンっ!」
竜の庭に風が吹く。揺らいだ草木の間から、朝露の輝きをまとった赤い蝶がきらきらと飛び立った。
緋竜の短い一日も情熱的な恋も、まだこれからだ。
犬も食わないような
「なあブネ、俺って嫌われてるんだろうか」
野宿が数日続いてウェパルの不機嫌指数が最高潮に達しかけたとき、ようやく久々に街の宿で穏やかな朝を迎えた日のことだ。打ち合わせを兼ねた朝食の食卓に着く直前、ソロモンが神妙な顔でそんなことを言い出した。
面倒そうだったから適当に流そうかと思ったんだが、元部下のブニのこととくれば、さすがに俺もぞんざいに扱うわけにもいかねえ。本腰を入れてよくよく話を聞いてやると、部屋を出た出会い頭に朝の鍛練を終えたブニと顔を合わせたらしく、挨拶がてら世間話をしようとしたところ素っ気ない態度で去られてしまったらしい。
俺の知るブニはいつも真面目で礼儀正しくて、そんなことをするヤツじゃあなかった。まだ例の影響でも残ってんのかもしれねえ。だとすりゃあ、俺にも責任の一端はある。少し様子を見てやるから待ってくれと言うと、ソロモンはほっとしたような顔で笑った。
それで、その二日後の朝飯前のことだ。
俺の目の前には、今度はブニが深刻な顔で座っている。話がありますとそっちが呼び出したくせになかなか言い出さねえもんだから、みんな来ちまうぞ、なんて脅すと、慌てて膝に置いた拳に力を込めて、言葉を絞り出した。
「あの、ブネさん、私、ソロモン……王、に嫌われるような言い方しかできないんですけど、どうしたら……?」
――ああ、確かヴィータの言葉にあったな。なんとかは犬も食わねえって。
The world is yours.
永遠に続くかのような暗い回廊。視覚的にも暗鬱になる空間で、文学から引用された言葉が、耳へ語り、心を侵していく。
その暗闇を歩いてきた旅人は、何を思ったのだろう。何を糧にここまで来たのだろう。過去と向き合い、現実を突きつけられ、自己への疑問に苦しみ、喘ぎながら、それでも――私を助けるために歩き続けてきたのだろうか。
私という存在を認め、救い出してくれたあなたは、今日もまた真っ暗な通路を歩く。過去の闇を振り払い、現実の闇を抜けて、言葉に満ちたこのモロクロームの部屋へと訪れるのだ。
「――エス、花見へ行こう!」
「……本当にあなたって能天気ね」
「えっ」
旅人と心を交わしたエスは、世界に外があることを知った。夢でも、妄想でも、物語でもなく、現実のものとして外の世界が存在していることを知った。
だが、知っただけ。自らがこの部屋から出ることには考え及ばず、その現実はやはり遠いものだと思っていた、の、だが。
「願えば、叶うんだよ」
耳を覆いたくなるような暗闇を、エスの手を引いて早足で歩いた旅人はそう言って笑い、闇の中にあった扉を開く。
隙間から漏れ入る白光が扉の開きに応じてまばゆく膨れ上がり、思わず目を覆った手を外すと――そこには、世界があった。
どこまでも高く突き抜ける青い空、目元まである前髪を揺らす風、土と木と花の香り、小鳥の愛らしいさえずり。知識として知っていただけの未知の世界を前に、あまり大きく表情を動かさないエスの顔にも驚きが表れた。
「ほら、こっち」
再び旅人に手を引かれると、エスの足は初めて草と土を踏みしめた。床よりも柔らかく、けれど、息づく大地は足裏へと確かな感触を返してくる。
歩を進め、慣れない感触への戸惑いが減ってきた頃、二人の前に大木が現れた。足元ばかりを見ていたエスが幹に沿って視線を上げていき、
「これが桜だよ、エス」
隣から聞こえる声と同時に、彼女の瞳が枝先を捉える。
澄んだ青空に映える、薄いピンクの花々――。それは「ああ……」と、ため息がこぼれるほど美しく、エスは知らぬうちに、旅人と繋いでいない方の手に持っていた本を落とした。
「……綺麗ね」
ようやく出た言葉で、旅人が嬉しそうに微笑む。
春の絨毯の上へと落ちて開かれた頁に、桜の花びらが一枚はらりと落ちる。春風が、それをこっそりと隠すように頁を捲っていたことに気付かず――左頬に落ちた髪を耳にかけながら、エスが身を屈めて本を拾い上げた。
この春風の悪戯が、後ほどモノクロームの世界に戻ったエスへ、ひとひらの色彩と確かな実感と幸福な笑顔のそれぞれをもたらすことになるのだった。
うつくしかったゆめのはなし
端にスカラップの美しい装飾が施された銀製のトレイの上には、ティーポットと二組のティーカップ。うち一つのカップはソーサーへ伏せられ、もう片方のカップには紅茶が半分ほど揺れている。揺れながら、透き通った赤橙色が闇を薄く照らす壁の灯りと部屋の様子をぼんやりと映し出す。
部屋には、一人の少女がいた。
幼さの残る愛らしい顔立ちは、ともすれば部屋中に飾られた人形と同じかと見紛うかのごとく、何らの感情も表していない。夜の静寂によって、その乏しい表情が一際引き立っているように見える。
あまり活気のないエンブラ帝国の中でも、ことさらに静かなこの部屋――ヴェロニカ皇女の私室で、部屋の主であるヴェロニカは伏せたままのティーカップを見つめ、紅茶を一口すすった。
伏せられたティーカップを使う相手は、今はいない。
彼女には兄がいる。名をブルーノと言い、彼女が唯一心を許す人物だ。このカップは、国を不在にすることの多いブルーノがいつ顔を覗かせてもいいようにと、必ず用意しているものだった。だが、このところ、ブルーノはヴェロニカの私室は元より、この城にいることの方が稀で、最近では使う機会がめっきりと減ってしまった。
そのことが、少し前までは本当に寂しくて、途方もなく悲しかった。
あまり口数の多くないヴェロニカにとっては、城に長居することのない兄を引き止める唯一の手段が、この紅茶だった。もし帰ってきたときに共にいる時間を持つため、そして何より、帰ってきてほしいという願掛けを込めて、このティーカップを置いている。けれど、カップは最後まで紅茶を注がれることもなければ、飲む者の顔を映すこともない。
しかし近頃、兄の帰りを待つヴェロニカの心を埋めるのは、寂しさばかりではなかった。話したいことができたのだ。
「お兄様……今度かえってきたら、おかしなゆめのお話をしてあげる」
それは、まぼろしでしかない、あり得るはずのない、だからこその、ゆめ。
アスク王国もエンブラ帝国もない、敵国の王子と争わないで済む、異界の話。そこで記憶をなくしたこと、ロキにまた嫌な思いをさせられたこと、アスクの王子やアリティアの王子、ニフルの王女に守られたこと、それから、それから――。
夢物語でもあり奇跡のようなその話を、兄ならば聞いてくれる。たどたどしく紡ぐ自分の話を、馬鹿にすることもなく、兄ならばきっと微笑んで最後まで付き合ってくれる、そんな気がした。
「だからね、またあたしといっしょに紅茶をのんで……」
ティーカップがソーサーの上へ置かれると、夜のしじまにわずかなさざなみが立つ。揺らぐ紅茶に映ったヴェロニカの口元は無感情ではなく、ほんの少しだけ柔らかく弧を描いていた。
ぬるいビール
世間では氷を入れるビールなんていうものが販売されているらしい。確かにこの暑さでは需要もあるだろうな、などと茹だる頭で考える。
卓袱台の上に置いた従来の瓶ビールが少しずつ汗を掻いていくのを横目にしながら、ロード・エルメロイⅡ世は首元に貼り付いた髪を後ろへ払い、そのまま組み敷いた立夏の、鬼灯色の髪がひたと貼り付くうなじへ唇を寄せた。
日本は、今年も酷暑だ。
本来ならば慣れぬ暑さを一番嫌うのは自分のはずだが、それでも、この行為をやめられないのは、目前で可愛らしい反応を見せる幼妻のせいなのか。
この分だと瓶ビールを飲む頃には、立つ泡も無くなっているだろう。立夏は明るく笑いながら氷を入れて飲めばいい、なんて言って、きっと自分はそれを邪道だと眉をひそめるのだ。
これが、私たちの様式美のようなものであればいいと思うのは――、やはり、この熱に浮かされているせいなのかもしれない。
molto carina
綺麗な指だと思って、見ていた。自らの浅黒い肌の色とは違って、どこか女性のようなしなやかさのある白い指はまばゆくて――本当に時々、触れてみたくなるほど。
「それは違うよ」
あまりにも突然の否定だった。何を違うと断じられたのかすらわからず、ソロモンは面食らう。
ヒュトギンは、くす、と猫の眼に似た目を細めた。
「気付いていたかい? オレがいつもこのスフィアに触れるところ、キミは羨ましそうに見てるんだぜ。だからオレも、よく見えるようにしてあげていたつもりなんだけど」
宙に浮いているグリーンスフィアに沿わせた指先が、ソロモンの眼前に突き出される。
「ソロモンくん、キミはね……触れたいんじゃないんだ。オレに、触れてほしいんだよ」
白い指はいつも彼がそうしているようにして、ソロモンの輪郭をなぞり、前髪を柔らかくつまんで撫で、そして、
「――だって、オレがそうなるように仕込んでおいたからね」
顎が、軽く持ち上げられる。
ソロモンには触れられた嫌悪感などなく、むしろ、彼の言う通り――最初からそれが望みだったかのごとく、胸は歓びに満たされた。
湧き上がる幸福感に戸惑ってソロモンが唾液を飲み込むと、ヒュトギンはやはり普段と同じように、形の良い唇でふわりと笑った。
chain up you
『目は口ほどに物を言う』とは、昔からヴィータ文化にあることわざだ。だが、きっと彼の場合は『鎖は口ほどに物を言う』と称するのが相応しいだろう。
そいつと来たら、顔で笑っていながら、鎖は威嚇する毒蛇の尾のごとくシャラシャラと音を立てていたり、口では悪態をつきながら、鎖は身体の後ろで猫の尻尾のようにゆらゆらと揺れていたりと、傍から見ていて実に愉快だった。
そう。傍から見ている分には、愉快だったのだ。
「あーあ……こんなはずじゃなかったってのにな」
目の前に立った彼の表情は、いつもと変わらない。どこか飄々とした振る舞いも同じだった。にも関わらず、いつも数多の言葉が溢れ出てくるその口元からこぼれた声は、普段よりも少しだけ、低い気がした。
「……バラム、……ッ?!」
真意がわからず、問い返すつもりで名を呼ぶ。その、瞬間――金属質の音がやけに近くに聞こえて、両腕に締め付けられるような痛みが走った。ちょうど、アルスノヴァ血統の証である紋様の境の部分だろうか。半ば無意識に視線をそちらへ飛ばすと、バラムのバンダナについたチェーンが絡み付いている。
「俺の鎖、気が短くてさ」
鼓膜を揺らす声はあくまでも軽快だ。それとは真逆に、腕の自由を戒める力は徐々に強まっていく。
「ほーら、オマエが悪いんだぜ? ……あんまり俺を焦らして困らせるから」
鈍く続く痛みとはちぐはぐな無邪気な笑顔に、背筋が冷える。やはりこの男はメギドなのだと改めて思い知らされながら――眼前へと伸びてくる手を見ないように、まぶたを伏せた。
Guardian
私が盾であるべきはずなのに。私こそが、盾にならねばならぬというのに。
常に横で剣を振るっていたはずの彼女の方が、わずかばかり速い反応を見せた。遠くより前衛を目掛けて放たれた矢の先端は、見事なまでに彼女の右胸を貫いていた。――それは、私を庇うために受けた傷だった。
「エルネスト……殿……すまない……」
いつも気丈な言葉を紡ぐ唇が、弱々しい微笑みを浮かべる。ともすれば戦場の唸りにかき消されそうな声は、だが確かに私の鼓膜を揺らした。
「騎士ならば立て! アレクサンドラ殿!!」
彼女の剣にある迷いを、その口から直接聞いたことはない。私もまた、己の盾にある迷いを彼女へ明かしたことはない。
それでも我らは、騎士であった。
信じていたセレネイア帝国と訣別した道が正しかったのかと常に糾弾し、己が騎士道の正しきを常に自問し、悩み、迷い続けながら、それでも剣を振るう。誇りとともに戦い、誇りのために護り、誇るべき勝利を手にする。
そして、いつの日にか、ともに心からその勝利を喜べる日が来ると信じていた。
「後は……任せ、た……」
目前、頭の高い位置で結われて狐色の長い髪が、重力に従って地面へと落ちた。夜の訪れを兆す色のマントが血を吸い上げ、どす黒く変わっていった。
瞬間、あの、帝国を見限ったときと同じ衝動が、私を足元から突き上げた。
これは、激しい怒りなどではない。猛る憤りだ。仲間を倒した敵への。そして――仲間を護ることのできなかった自分への。
「おおおぉぉぉぉっ!」
必ずこの戦に勝利すると誓いを込め、吼え猛る。
迷いは消えず、我が身への憤りは募るばかりだ。だが、私は騎士だ。騎士であるがゆえに、ここで剣を止めてはならない。ましてや、あのときの同じように憤りに身を任せることも、あってはならないのだ。
「アレクサンドラ殿、しばし休まれるといい。私が、貴女の分まで皆を護ってみせよう」
視界の端で、後方からジネット殿とリズ殿が駆けて来るのが見えた。それを確かめた後、仕切り直しのため、呼吸を整える。
同胞を護ることのできなかった傷だらけの盾を構え、前を見据えた。
「――この盾に、懸けて!」