並んで座るシートの真ん中に、プラスチック製のトレイを取り付ける。大きなキャラメルポップコーンと二つのジュースが載ったそれは、映画館の中での私と彼を隔てるように鎮座した。
 劇場の明かりがわずかに落ちる。
 すうっと溶けるように静かになった空間で、予告編の上映が始まる。隣をちらりと見てみると、ソン・シャンの横顔がスクリーンの光に照らされている。
 映画本編が、もうすぐ始まろうとしていた。


   * * *

「でも、彼の好きな映画ってホラーやスプラッターですよね?」
 ただの仲間――と表すには、私たちを取り巻く環境はバイオレンスなわけだけど、ともかく大枠で言えばこうなる――という間柄であったシャンから、今度映画でもどうですか、なんて誘われてやや浮かれていたところ、梨花が静かな声で事実を言い放った。
 そうだった。日頃しっかりとした発言をしているので忘れがちだが、彼はゾンビ映画やホラー映画が大好きな人だった。つまるところ、その手の映画を観ようと言われたようなものだ。ちなみに私は、こんな悪魔だの何だのと使役して戦ってはいるものの、彼と正反対で怖いものはとてつもなく苦手な女子である。
 当日観る映画のことを考えると、冷や水を頭から被せられたみたいに全身がひんやりとしてきた。
 いや、でも、……でも。
 リベレイターズの活動以外でシャンに会える、ということのレア感に比べたら、それくらい大したこと、ない、はず、だ。
「と……と、と」
「と?」
「――特訓します!」
 拳を強く握りしめ、椅子を盛大に後ろへ倒しながら立ち上がる。少し離れたところにいたメガキンが、ヒュウ、と口笛を吹いた。


 映画を観に行く当日。
 特訓を決意してからというもの、梨花が妙に流血シーンの多い格闘アクション映画をおすすめしてくれたり、リリンがお客さんから教えてもらったというゾンビの出る海外ドラマDVDを貸してくれたり、メガキンがスプラッター要素の強い動画を教えてくれたりと、仲間たちが本当に色々と世話を焼いてくれた、んだけど。
 結論から言って、無理。
 明るい部屋で観ようと、みんなで観ようと、音を消そうと、とにかく怖いものは怖い。
「あたしこわ~いって言いながら抱きついちゃえば?」 とは、最後までどうしようどうしようと頭を抱えていた私を見かねた、リリンからの最後のアドバイスだった。無理! それこそ絶対無理!
 鏡の前に立って、自分の顔を眺める。
 リリンの言葉を思い出して顔全体が真っ赤になっているくせに、目の下には悩みすぎた結果のクマがどんと居座っている。
 実のところ、悩んでいるのは映画の内容のことばかりじゃない。
 デート、って、思ってもいいのかな、なんて、益体もないことをずっと考えて、昨夜は眠れずにいた。
 誘ってくれたときの彼の態度があまりにも普通だったから、女の子を誘っているつもりすらないんじゃないか、私だけが喜んで浮かれているんじゃないかって気がして、どんな顔で、どんな気持ちで行けばいいのか、全然わからないまま当日を迎えてしまった。
「……とにかく、お化粧しよ」
 化粧水をコットンで伸ばして、乳液を肌に染み込ませて、色のついた下地を顔に広げて、クマを出来る限りコンシーラーで消して、ファンデーションをはたいて――そうやっていくうちに、少しずつ気持ちが落ち着いてくる。
 たまたま誰かと映画を観たい気分だったのかもしれない。手近にいたのがたまたま私だったのかもしれない。だと、しても。
「私にとっては……特別、だから」
 私は、リベレイターズに入ってから、これまでとは考えられないような生活に身を置くことになった。そもそも私は、超がつくほどの怖がりなのだ。アコライツと命がけの戦闘なんて、不安と恐怖でたまらなかった。そんなとき、ここにいる個性豊かな仲間たちに、励まし支えてもらった。とりわけソン・シャンはとても話しやすく、彼と接する時間は一種の安らぎでもあった。
 吊り橋理論というものだろう。危険と隣り合わせの中で感じていたその安らぎが淡い恋心に変わるのは、必然にも等しかった。
 だから、ソン・シャンという賢くて優しい男の子は私にとって特別で、そんな彼と二人で過ごす時間は、特別以外の何物でもない。そうでなければ、わざわざ苦手なホラーを克服しようなんてしない。……いや全然克服できなかったんだけど。
 ともかく、私からすれば今日という日は特別、というか、その――デ、デートなわけだから。気合を入れすぎて引かれない程度に、それでも、精一杯のお洒落をして彼の隣を歩きたい。
「――これで、よし」
 カシュ、という空気の抜けるような音とともに口紅の蓋を閉じる。仕上げに上唇と下唇を軽く開閉させれば、鏡の前にはいつもよりも綺麗な私が出来上がっていた。
 時計を確認する。出発にはちょうどいい頃だ。持ち物を確認して、最後にスマホを鞄に仕舞って、家を出る。
 天候は良好。足取りは、自分で想像しているよりも、軽く弾んでいた。


 待ち合わせ場所は、映画館近くの公園。数分早く到着した私は、彼に「着いたよ」と一報だけ入れておいて、そわそわする気持ちを落ち着かせるためにベンチへ座った。スマホを鞄に仕舞おうとしたところ、すぐに返信を知らせる音が鳴った。「こちらも到着しました」というメッセージ内容だった。
 顔を上げて周囲を見回す。意外とそう遠くない場所にシャンの姿を見つけ、手を上げかけた、ものの。
「あれ……?」
 今、辺りを探してくれていた目と目が合ったと思ったんだけど、そのまま視線が私を通り過ぎていってしまった。過ぎていった視線が戻ってくるのを見計らって、今度は手を振って見せる。さすがに気がついたらしく、首をかしげながらこちらへと近寄ってきて――オーバルフレームの眼鏡の中央を、クイ、と指で持ち上げた。確かめるように時間をかけて私を見てから、やおら口を開く。
「……ここにいたんですね。いつもと雰囲気が違ったから、すぐ気付きませんでしたよ」
 上海人とは思えないほど流暢に、見た目よりも穏やかな声の調子で、彼が言う。いつもと同じなのに、今日はそれがとても私の胸を騒がせる。
 変だったかな、とか、せっかくだからお洒落してきたんだよ、とか。気の利いたことも言えずにいる私をよそに、シャンはスマホの画面を確認した。
「さ、行きましょうか。先に映画を観ます? それとも軽いものでも食べますか?」
 時刻はお昼前。腹が減ってはなんとやら、と言うか――ホラーを観た後に食事をする自信なんてない。
「ご、ご飯でお願いします!」
 慌てて答えると彼は笑って、行きましょうか、ともう一度言った。


 シャンがチェックしてくれていた上映時間との兼ね合いで、ゆっくり食事という形ではなく、近くのファーストフード店で軽食を済ませることにした。そのことそのものに異論はなく、むしろ賛成だったのだけど、二人きりで向かい合って食べる、というこれまでにない状況と、とんでもなく楽しそうに語られるホラー映画の話題のおかげで、食べ慣れたはずのハンバーガーは味がしなかった。正直に言うと、ケチャップが血糊に見えたくらいだ。完食できた自分を褒めてあげたい。
 ただ、無邪気に話す彼の姿はとてもまぶしかった。本当に好きなんだなあって改めて思わされる。
 本当は、少し、このまま映画館じゃなくって違うところに行けたら、なんて往生際の悪いことを思っていたけど――彼の笑顔が見られるのなら、怖い映画の一本や二本くらい、なんてことないような気がしてくる。
「そろそろ館内に入る方がいいかな……もう行こっか?」
 スマホで時刻を確認して問いかける。するとシャンは、腹を決めた私とは対照的に、なんとなく困った様子で視線を宙へさまよわせた。
「そう……ですね」
 そう言いながら、少し下を向く。真ん中で分けられた彼の前髪がカーテンのようになって、色素の薄い瞳を隠してしまう。見えづらくなった表情は、しかし、どこか躊躇するような雰囲気をまとっている。
 どうかしたのだろうかと様子を見守っていると、顔を俯かせたまま、細い指先が眼鏡を持ち上げた。
 ふと向けられた眼鏡の奥の眼差しが真剣で、私の心臓が大きく跳ねる。
「あ、すみません、ちょっと考え事しちゃってました。うん、行きましょう」
 次に顔を上げたとき、彼はいつもと同じふわっとした笑顔だった。だから私も、ほんの少し速くなった鼓動だけを無視して、いつも通りにうなずいた。
 それから私たちは他愛のない話をしながら歩いた。さしものアコライツも空気を読んだのか、幸いにも今日に限って彼らの襲撃はなく、いいお天気の下、到着してしまうのが惜しくなるくらいののんびりとした速度で歩く。それでも、ものの数分もかからずに映画館へ辿り着いた。
 さすがは都内でも有数の超大型シネマコンプレックス。フロアには多くの人が行き交っている。
「うーん、おいしそうな匂いがする」
「食べます?」
「……シャンが一緒に食べてくれるなら」
 シネコンはいつ来ても、キャラメルの甘い香りが漂っている。さっき軽く食べたばっかりだというのに、この誘惑には抗いがたい。本当はホラー映画を観ながら食べられるか不安はあるんだけど、もしかすると逆に気晴らしになるかもしれないと考えたのだった。
「じゃあチケットを買ってくるんで、ポップコーンと飲み物をお願いします。俺、コーラで」
「あ、うん、じゃあ行ってくる。チケットよろしくね」
 言うが早いか、シャンはすぐに自動券売機へ向かっていった。私も売店カウンターに出来ている列の後ろに並んだ。並びながら券売機の方を見てみると、ちょうどシャンが画面の前に立っている。
「あ……」
 大学生らしい軽い服装の後ろ姿を眺めていたら、不意に彼がこちらを見た。真剣な眼差しは、アコライツと戦っているときのそれに似ていた。
 二人で来ているんだから相手の様子を窺うなんて当たり前のことなんだけど、こうやって目が合うとドキドキして、慌てて視線を戻してしまう。手くらい振ればよかったかも、笑顔くらい浮かべたらよかったかも、なんて少しだけ後悔しながら、順番の回ってきた売店でキャラメルポップコーンとジュースを注文した。
 そしておもむろに元いた場所まで戻ろうとした私の手から、買ったばかりのトレイが半ばひったくる勢いで奪われる。
「――え?」
 オレンジ色のトレイを取ったのは、シャンだった。無言でわずかに俯く彼に、代わりに持ってくれたのだと思って礼を言おうとした、瞬間。トレイを持っていない方の手で、手首を掴まれる。そして、私を引っ張ってどんどん歩き始めた。
「えっ、な……待っ……」
 突然の出来事に驚く暇も与えられず、足がもつれそうになりながら引かれるがままについていく。
「ね、ねえ、どうかしたの?」
 エントランスを抜け、シアターの扉をいくつか素通りすれば、徐々に人の数はまばらになっていった。意を決して声をかけると、そこでようやく彼の足が止まった。少ししてから解放された手首に、じんわりとした痛みが脈打つ。それはかすかな痛みとともに、触れられていたという事実を私に思い出させて、頭のてっぺんから爪先まで熱くなる。
「あー……まいったな……」
 全身に行き渡る恥ずかしさを持て余していると、こちらを見ないままのシャンが、これまで聞いたことのないばつの悪そうな声を出した。
「まあ、もう後に引けないか……」
 彼が振り返って、私を見る。さっきチケット販売機の前で浮かべていたのと同じ真剣な眼差しが、ふわりとほぐれていった。
「本当は、ホラー映画を観ようと思ってたんです。俺の好きなもの、知ってもらいたくて。知って、好きになってもらいたかったから」
 シャンの顔には、諦めたような、少し苦笑いに近い微笑みが浮かんでいる。
 私はと言えば、彼の言葉に自惚れそうになって、ようやく引いてきた全身の火照りがまた戻ってきている。手のひらにじんわりと汗がにじんできているのが、自分でもわかった。
「でも、君は怖いものがとことんダメじゃないですか。聞きましたよ、リリンの借りてきた海外ドラマ、画面すらまともに見られなかったって」
「うっ……それは……」
「さっきもハンバーガー食べながら遠い目をしてましたし」
「そ、そんな顔してない……と、思うんだけど……」
「してた。……まあ、あれは俺もちょっと意地悪だったかなって反省はしてるんですけど」
 頭の後ろに片手をやって、あははは、と笑う。いや、とっても軽く笑ってくれてるけど、それってもしかして。
「じゃあ、ホラーの話をしてたのってわざと……?」
「ああ、最終確認ですよ。君が本気で嫌がっていたら、映画観るのをやめてもいいかなーって思って。……途中から反応が面白くなってしまって、ついついやりすぎちゃったんだよなぁ」
「え?」
 なんだか小声で不穏なことを言われた気がしたが、コホンという咳払いでごまかされてしまう。
「なのに君は、映画館に行こうって言いましたからね。ホント、そういうところ人がいいというか、めげないっていうか……」
「それは……私も……シャンが好きなものを知りたかったし、シャンが喜ぶ姿が見たかったから……」
 そう、そうだ。私は彼が好きだから、彼の好きなものを好きになって、一緒に楽しめるようになりたかった。
「うん、でもやっぱり、俺だけが楽しいんじゃ意味がないですし」
 その想いは私だけのものではなく、シャンも同じように思ってくれていた。それがわかって、嬉しさに脚が震えそうになる。
「だから……違う映画のチケットを買ってきました。これなら一緒に観られるでしょう?」
 嬉しくて、言葉が喉で引っかかってうまく出てこない私に、彼はパーカーのポケットからチケットを二枚差し出し、見せてくれた。そこには、ホラーでも何でもなく、純愛をテーマにした今話題の恋愛映画のタイトルが書かれている。
「俺のキャラじゃないんですけどね、こういう映画。でも、君となら……いいかな」
 はにかんだように声を落とし、シャンが私に一歩近寄る。わずかに赤くなった顔でチケットをそっと手渡しながら、
「――デートって思ってるの、俺だけじゃないですよね?」
 確かめるように、念を押すように、目をまっすぐに見て訊かれたので、私は、ただただ泣きそうになりながらうなずいたのだった。


   * * *


 開演ブザーの音が聴こえる。
 本編の上映が始まってしまうと見られなくなるのがもったいなくて、もう一度シャンの横顔に目を向けた。すると彼もこちらを見て、ちょっと幼い笑顔を浮かべてくれた。今度は、ちゃんと私も微笑みを返してから、スクリーンへ視線を戻す。
 今日という日も、この映画も、きっと私にとって特別なものになるのだろう。甘ったるいキャラメルの香りと幸せな心地に包まれながら、ポップコーンをひとつつまんだ。

roadshow :2018/02/19
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