しおにゃんが、フレームのない眼鏡を指で持ち上げながらすげなく言った。容赦なく突きつけられた事実に、胸がきゅうっと冷える。でも、そのことが逆に私へ平静さをもたらした。
「罠の可能性が高いなら……最初からそのつもりで準備と覚悟をしていかないとね」
「ルーキーの言う通りだ。どうであれ俺たちはアイツを放ってはおけない」
メガキンが後押しをすると、しおにゃんは剣呑とした態度をいくばくか緩め、細く息を吐き出した。
「……キミたちなら、そう言うと思った」
あれは、きっと、池袋で私たちに助けてもらった恩を感じている彼女なりの笑顔だったのだと思う。アイドルのわりには不器用なその微笑みはすぐに消え、知能指数180の怜悧な表情に戻る。
「じゃあ、現時点で考えられるシナリオ中、最悪の二つを軸に考えて行動する。いい? 縁起でもないなんて言わずに聞いて」
誰かの息を呑む音が、静寂に響く。しおにゃんは構う様子もなく続けた。
「まずは、既に死亡しているケース。そして、もう一つは――」
アコライツに対して異様に鼻の利くメガキンが新しい電子ドラッグの情報を持ってきたのは、三日前のこと。
「けどさ、電子ドラッグってこないだ潰したって言ってたばっかじゃーん?」
リリンの疑問はもっともだ。私たちはついこの間、新宿で電子ドラッグの絡んだ事件を解決したばかりだったのだから。
「前回で味を占めて改良版を発売したってところですかね……。俺でよければ、ちょっと探ってみますよ」
パーカーのポケットに手を入れながら、シャンが申し出る。メガキンは、指をパチンと高らかに鳴らした。
「OK、頼んだぜソン・シャン。情報を辿った先で出てくるトラップ悪魔には気をつけてな」
「前回と同じヘマはやらかしませんって」
そうやって朗らかに笑っていたシャンの行方がわからなくなったのもまた――三日前の話だった。
最後に彼の姿を見たのは、私だった。きっと例の電子ドラッグのことを調べていてくれたのだと思う。アジトのシェアスペースでノートパソコンに向かい、何事かをつぶやきながら凄まじい速度でキーボードを叩いていた。
その翌日から、シャンは音信不通となった。
最初は、プライベートもあるだろうからとやり過ごした。でも、二日目になっても誰からの連絡に対してもなしのつぶてで、シャンの通う大学に問い合わせたり、好きそうなショップを覗いたりと心当たりを捜してはみたけど、結局誰も見つけることはできず、ついに消息が途絶えて三日目の夜を迎えてしまった。
もう、これ以上の猶予は許されない。そう判断したメガキンがしおにゃんへ相談し、突き止めたシャンの居場所へ急行することとなったのだ。
シャンがいるはずの場所には、案に違わずアコライツのダウンローダーとホムンクルスで溢れていた。とはいえ、リベレイターズの東京支部長はじめ精鋭が来ているのだ。例え相手の数が多くても、ホムンクルスや並のダウンローダー相手にそう引けを取ることはない。
一体ずつくすんだ光の粒となって消えていく悪魔たちと、手持ちの悪魔を失って退却を余儀なくされるアコライツのダウンローダー。私たちを取り囲んでいた悪意と人数が漸減すると、大規模に展開されてきたデコヒーレンス領域も自ずと狭まり、消えていった。
「さて……俺たちの仲間がどこにいるのか、教えてもらおうか」
メガキンが、最後に逃げようとしていたアコライツの人間をとっ捕まえる。あまり私たちには見せない悪い顔を浮かべて、ギリギリという音が聞こえそうなほどの力で襟首を掴み上げた。
「ぐ、ぁ……ッ」
アコライツの男は苦しんではいるものの、話す気配を見せない。そのことに業を煮やしたメガキンが苛立たしげに片足でリズムを取り始めたちょうどそのとき、デコヒーレンス領域が再び展開した。
「新たなデコ化……?!」
ダウンローダーの襲撃を察した梨花ちゃんが、モデルガンを構えて周囲を見渡した瞬間、
「――メガキン、上です!」
高い位置から落下してくる黒い影に気がついたジュンユンが、鋭い声を発する。
咄嗟に上を見ると、海中を遊泳する翼魚のような巨大な悪魔が視界に入った。その正体を脳が理解するよりも先に、悪魔は細長い尾をたなびかせながらメガキンへ向かって急速かつ一直線に潜行してくる。
「チィ……ッ!」
メガキンは寸でのところで地面に転がる。その隙に、彼の手から解放されたアコライツは逃走を図る。私はと言うと、それに気がついていながら何もできずにいた。
だって――逃げていく男なんて、その現実の前では些末なことだった。
「うそ、まさか、あれって……」
再び泳ぐように夜空へと戻っていく巨大な魚影に向かって、愕然とつぶやく。
よく見れば銀色の体を持っていたその悪魔は、不夜城のネオンを受けて場違いなほど美しく輝いて見えた。そして同時に、私になんとも言えない懐かしさと吐き気をもらたした。
「ああ、うまく避けましたか。さすがはメガキンです」
アコライツのダウンローダーたちが逃げていった方向から、誰かの声が――ひどく耳なじみのある声が聞こえた。
『まずは、既に死亡しているケース。そして、もう一つは――』
出発前に聞いたしおにゃんの静かな言葉が、頭痛を伴って脳内に響く。
「そうやって死から逃れようと足掻く人間は好きですよ」
ぺたり、ぺたり、というゴム底がアスファルトを叩く足音が近づいてくる。夜の闇の中、少し離れた場所でスマートフォンの光が灯り、直後、空中を遊泳していた悪魔が降りてきた。
その名はソロモン72柱が一柱、フォルネウス。海の怪物の姿をした聡明な悪魔は、サーフィン好きの彼によく似合っているな、なんて、一緒に戦っているときによく思っていた。それが今や、
『もう一つは、本人が敵となっているケースだね』
想定していた最悪のシナリオが現実となって、フォルネウスと彼――ソン・シャンは、私たちの敵として目の前に立ちはだかっている。
「肥溜めに落ちた蟻のようで、見ていて飽きないですからね」
いつもと同じく少し間延びしたような優しい顔でにこやかに微笑んだシャンは、その顔のまま抑揚なく言った。そして、アスファルトに落ちていく声とともに、彼の顔から表情が消えていく。
「ソン・シャン、捜したぜ。……電子ドラッグでもキメちまったか? ノリがずいぶんとエクストリームじゃないか」
眼鏡の奥で、見たこともないような冷めた瞳を浮かべたシャンに、メガキンはいつも通り話しかける。けれどその声音は、とてつもない怒りに満ちているような気がした。敵となって現れた彼に、ではないだろう。きっと、彼をこんな風にしたアコライツと、それを止められなかった自分自身に、だ。
「そうですね、気分はいいですよ。今ならみんな……みんな、肉片にできそうだ」
今の彼がメガキンの怒りを受け止めることは、絶対にない。その証拠に、シャンはぞっとするほど無慈悲に笑って吐き捨てた。
「さ、始めましょうか。俺の好きなスプラッターみたいな殺し合いを」
言うが早いか、宙に浮かぶフォルネウスが暗い霧を放つ。私たちはスマートフォンを手に握り締め、応戦の構えを見せた。
「……おいで」
覚悟なら、してきたのだから。
「おいで――私の、悪魔たち!」
悪魔召喚アプリを起動する。画面の向こう側で、量子の粒が集まり形を作っていく。確かな質量をもってその姿を現した悪魔は、私の戸惑いをかき消すように一際大きく吠え猛った。
吐き気も迷いも絶望も何もかも捨てて、今するべきことは、たったひとつ。
「みんな一緒に……シャンも一緒に帰るんだから、絶対に!」
大切な仲間と、無事にあのシェアハウスに帰ること――ただそれだけが願いであり、今、私たちリベレイターズが果たすべきミッションだった。