アイドルにあるまじき舌打ちの音が、雨音に混じって掻き消えていく。
突如秋葉原を襲ったゲリラ豪雨の中を軽やかに駆け抜けた高殿栞は、適当な軒先の下へ身体を滑り込ませた。
早朝に目を通したどの新聞にも、降雨の兆しは記されていなかった。気の強い眼差しが、自分を裏切った空をしばし睨みつける。だが、どれほど知能指数が高かろうとどれほど歌や踊りがうまかろうと、人間は自然に敵わないのが摂理だ。
「はあ、最悪……」
ため息に、ありったけの苛立ちをこめる。さすがに非合理的と踏んで自然相手に怒ることこそやめたものの、ぶつける手段さえあれば雨雲すら蹴散らしたいくらいだ。もしこの場に井上殻斗がいたならば、サンドバッグ扱いをしていた自信がある。
服についた水滴を払おうと気を取り直し、お気に入りのライダースジャケットに手をかける。するりと脱ぎ落とすと、雨粒をまとった襟のスタッズが、最近では使われなくなって天井にぶら下がったままのミラーボールのように鈍く輝いている。
がらんとした客席という名の虚空に吸い込まれて消えていった、昨晩行った精一杯のライブパフォーマンス。そのライブハウスの天井に吊り下がる、半ば曇りがかったミラーボールがまぶたの裏に浮かぶ。
不意に、胸がちくんと痛んだ。
自分もそのうち、あんな風に誰かに忘れ去られるのだろうか。夢や希望を誰にも与えることができずに輝きを失っていくのだろうか。
漠然とした不安に襲われ、慌てて小さくかぶりを振った。
雨のせいだ。
天候が悪くなれば気圧が低くなる。日照が途絶え、空は暗く翳る。人間の精神は外部、特に天候に影響されやすい。天才とて、美少女とて、それは決して例外ではないのだ。
雨はあまねく人の弱さを暴き出してしまう。だから、好きじゃない。
再び暗雲をひと睨みする。しかしその眼差しは、先ほどと打って変わってわずかな愁いを帯びていた。
毒づく気も削がれ、気象情報を確認しようとスマートフォンを取り出す。画面は、誰からの通知も表示していない。
再びちくちくと胸が刺される。
アイドルとしても、一人の人間としても、誰からも必要とされていないような気がして、「……ほんっと最悪」と、だらりと腕を下げて遠くに視線を投げた、その、方角から。
「しおにゃん!」
――春が、やって来た。
そう錯覚したほど、鬱々としていた自分の世界に鮮やかな色彩を連れて、彼女はこちらへ駆けてきた。
「ああよかった。メガキンから、今日しおにゃんがアジトに来るって聞いたんだけど、急に雨が降ってきちゃったから」
差していた傘を閉じると、彼女の笑顔が花咲く。
「それで、キミは、わざわざ……?」
らしくもなく声が小さくなったのは、思いも寄らない言葉でやや呆気にとられたからだ。しかしその疑問に対して、彼女はきょとんとした顔でまたたいた。そんなこと当たり前だ、とでも言いたげに。
彼女は、最近リベレイターズに加入したばかりの新入りだった。悪魔召喚アプリをダウンロードして勧誘を受けた適応者の中でも悪魔の扱いが巧く、存在感を増してきている。メガキンの言葉を借りれば、期待のルーキーというやつだ。
なによりメンバーが彼女に期待を寄せる理由は、その共感指数の高さゆえだ。共感指数は、悪意の伝染を促すあるいは妨げる指数を数値で表したもので、デビルダウンローダーとしての資質と言ってもいいだろう。その数値は、悪魔との共感にも深く関わる。
「だって、しおにゃんが風邪を引いて辛い想いをするって思ったら、怖くなって」
そして、あまり認めがたいことではあるが、彼女と話していると、それが人間との共感にも関わっているのではないかという荒唐無稽なことを思ってしまうのだ。
「……つくづく思ってたけど、キミって変だよね」
「えっ、そう?!」
腕を組み、言う。すると、我が事のようにしゅんと眉を下げていた表情が、驚きに変わった。
ころころとよく変わる表情も、他人を思いやる心も、自分にはないものだ。だから、人に愛され、必要とされる。事実、彼女の周りにはいつも誰かがいる。
それが――この雨の中では、少し妬ましさすら感じてしまう。
「でも、変だって思いながら、私を嫌がらないでいてくれるの嬉しいな」
羨望と嫉妬をかわす様は、風に舞う桜の花さながら。彼女は裏表のない笑顔を浮かべたまま、春色のパーカーのポケットからハンカチを取り出した。
白いハンカチが、まだ濡れていた前髪に柔らかく当てられる。頬、顎、鼻先と触れた後、瞳の前までやってきたそれは、一度遠慮がちに動きを止めた。
そもそも拒絶すらしていなかったのだ、今さら顔中のどこを触れられようとも構わなかった。黙って目を閉じると、少ししてから、ふわふわとした布の感触がまつげに触れた。
注がれる想いに、優しさに。雨の呼び込んだ空虚感がみるみる消えていく。驚くほど胸があたたかさに満たされていく。妬ましい、と思っていながら、その彼女に触れられていると脈が速くなる。上がっていく心拍すらもなぜだかとても心地よい。体をまとう雨粒と一緒に、醜い嫉妬も拭われていくような気がした。
だから、なのだろう。
そっと離れていくハンカチに導かれた開いた視界に映った彼女の微笑みに、春の気配を感じたのは。
「ほんっと……キミ、変だと思う」
それを変、としか表現できない自分は、なんて可愛げがないのだろう。多少の自覚はあるものの、これが高殿栞という存在なのだから、もうどうしようもないのだ。だが、彼女はすべてを受け止めるかのごとく柔らかに瞳を細め、その眼差しは、ふと秋葉原の上空へと投げられた。
「そろそろ小降りになってきたかな」
言うが早いか、ジャンプ傘が開かれる。勢いで、傘についていた雨粒が弾け飛んだ。
少し明るんできた雨模様の空の下、雫はきらきらと輝いて、まるで燦然と回るミラーボールみたいに綺麗に映り――その、真ん中で。傘を一輪咲かせた彼女が、こちらに向かって片手を差し出した。
「行こ、しおにゃん」
導かれるまま、その手を取る。
同じ傘に二つの身体が収まる。肩同士が触れそうなほどの距離で並ぶと、少しだけ胸が甘く締め付けられた。
「あのさあ、ちょっと訊くけど。もしかしてキミ、傘一本しか持ってこなかったの? 迎えに来たのに? 普通は二本持ってくるよね?」
弾む胸の内をごまかす言葉は、いつも以上に辛辣に響く。だというのに、彼女はどうしたって困惑することもなく、
「だって、しおにゃんと相合傘できるでしょ?」
事もなげに、そんなことを言うものだから、これにはさすがの高殿栞も打つ手なく、頬を赤く染めてうつむいた。
悪魔の扱いでは互角かもしれないが、見た目や頭脳では勝るはずだ。間違いなく。だが、それとはまったく異なる部分で、自分では彼女に勝てる気がしない。
「あーもう……これだから雨は……」
八つ当たりのつぶやきは、弱まってきた雨とともに濡れた地面へ。それでも心は、先ほどよりもはるかに穏やかで――雨も悪くないかもしれない、などと思うほどには、あたたかなもので満たされていた。