ただの気まぐれですよ、と。青い唇の片側を意味ありげに持ち上げながら、妙に恭しく――慇懃無礼とも言うけど――渡された質のいい紙袋をゆっくりと開ける。すると、小さな紙袋の中からは、これまた小さな直方体の箱が出てきた。あまりそういうものを買わない私でもわかる。これは、ルージュの箱だ。こんなものを寄越すということは、もしかして、女らしさが足りないとか、そういう類のクレームを遠回しに言われてるのだろうか。あの胡散臭い大天使ならやりかねないとは思ったけれど、それでもやっぱり私も年頃の女である以上、新しいコスメは胸が躍る。ウキウキしながら鏡の前に向かい、ルージュを箱から取り出す。けど、蓋を開けたところで、彼の意味ありげな微笑みが何を指していたのかを理解し、動きを止めた。出てきたのは、悔しいほどに美しいブルーパープル。あの大天使の唇そのもののような色のルージュが、ラメをまとって煌めいている。あいつめ、と思う気持ちとは裏腹に、その輝きは魅惑的で、どうしてだか目が逸らせぬまま、子どもが母親の口紅をこっそり使うみたいに、密やかに自分の唇へその色を乗せた。普段使うことのないそのルージュカラーは私にはとても似合わなくて、なのに――だからこそ。まるで唇を奪われたかのような錯覚が身を焦がした。
(2019/11/20)
Mastema
ここは、リベレイターズ東京支部。アジトとして使われている秋葉原の邸宅の、共同スペースである。
属している陣営に格別の想いなどはない。リベレイターズやアコライツの事情に興味はなく、あえて言えば、各陣営の思想を主の御意思と擦り合わせられぬかと考えるくらいか。どうあれ、召喚に応じて使役されている分には、おいそれと反旗を翻すこともできないのだ。“試す者”である大天使マンセマットは、珍しく大義なき現界を素直に受容していた。
しかしながら、彼の知性――否、狡猾さまでもが矯正されるわけではない。
いかに置かれている状況下で、いかに召喚者の目を掻い潜り、自身のいいように物事を運んでいくかと、何食わぬ顔で考えているのだ。
マンセマットはスマートフォンから音もなく姿を現すと、改めて自身の召喚者を見下ろす。
断じてリベレイターズの事情に興味はない。興味はないが、此度の戦いは、いささか劣勢を強いられていた。無事に勝利を手にしたが、悪魔を使役する人間にとっては、相当量の生体マグネタイトや体力を消耗したはずだ。
それゆえ、帰還するなり、リベレイターズ陣営のダウンローダー数人とこの共同スペースのラグマットで倒れ込み、そのまま泥のように眠っている。
マンセマットも、つい先ほどまでは召喚アプリの中で大人しくする以外にはなかったのだが、多少なり召喚者の心身が回復してきたのだろう。こうして人間界に姿を投影するくらいのことはできるようになった。
今の召喚者は、凡庸だ。あまり理性的ではないので認めがたいが、戦闘における勘そのものはいい。生体マグネタイトの量も申し分なく、悪魔たちとのコミュニケーションにおいても、存外うまくやる。だが、人間としては凡庸だった。悪魔召喚プログラムを手にした経緯も偶然であり、法も秩序も自由も混沌もなければ、強い目的意識があるわけでもない。
それでも、どうしてだかこの少女は、事あるごとに素知らぬ顔で与えてきた自身の試練を、するりと乗り越えてきた。
大義なき現界の中、属した陣営に真実興味などはないが――このニンゲンには、多少なり好奇をくすぐられるのは事実だ。
少女は、まだ眠っている。悪賢い大天使が傍らにいることも知らず、無防備に。
その頭の天辺から足の爪先まで、敵意なき眼差しでねぶるように見つめると、マンセマットはさてどうやって誑かしてやろうかと、弧を描く青い唇から吐息を漏らした。
(2019/11/25)
Lucifer
音もなく、そよ風のように隣へ現れたルシファーに、マンセマットは仮面の下の眉間をひくつかせた。
ルシファーは、召喚者がつい数日前に創り上げた悪魔だ。高位悪魔の合体成功を喜び、街へ連れ出す他、様々なリソースを注ぎ込んでは強化に励んでいる。
白い六枚羽、風に靡くその異名に相応しい金色の髪、清らかな白肌――自身とは対照的な要素で構成される見目は、美の極みとも称されるものだ。元々それらが好ましくなかったとは言え、本来ならば平静を崩されるほどではない。今、マンセマットの嫌悪が表情に現れた理由は、召喚者がルシファーを強化させるために、他でもない自分を前線から外したことにあった。
「何の用だ、ルキフェル」
悪魔召喚プログラムの中におけるグレードの優劣があるとは言え、そもそもは同格――同じサタンとして扱われる悪魔である。マンセマットは隣に目もくれず、人間と接するときとは異なる威圧感を放つ。
「今のお前は、その名に与えられし意味を忘れたかのようだな」
ルシファーもまた、美しい見目に似つかわしくない禍々しさをまとったまま続ける。
「ずいぶんと人の子に心を許している……」
「オレが、ニンゲン如きに心を許しているだと? 愚かなことを」
心底意外そうにしながらも、ようやく隣へと視線を遣り、声を一層低く落とした。だが、そんなことで効果を与えられる相手ではない。
「――マスティマ、嫉妬は罪を産むぞ」
ルシファーは最後にそう告げると、喉の奥でクク、と音を立てて姿を消した。
「嫉妬……?」
残されたマンセマットが、いささか呆然と呟き零す。
確かに、現状は面白くない。面白くはなかったのだ。
だがそれは、自分が前線から外された無礼に対してのもののはずだった。だと言うのに、かつて神に背いた堕天使からもたらされた言葉は、口惜しいほどに自身の精神を表している。
嗚呼、本当に面白くない――。
仮面の下、眉間に深く皺を刻んだマンセマットは、ギリ、とその青い唇を噛んだ。
(2020/01/24)