兵どもが夢の跡


 彼がアジトに来るなんて、珍しいこともあるものだ。
 玄関の幅を圧迫しながら入ってきた彼――井上殻斗は、シェアスペースで目をぱちくりとしているルーキーに向かって手を上げた。
「残念ながら、しおにゃんなら今日は留守にしてますよ」
「わかってる。留守を狙ってきたんだよ。地下に用があってな」
 あっ、この人スケジュールとか全部把握するタイプのドルオタだ。……などと思ったことは億尾にも出さないようにしながら、ルーキーは首をかしげる。
「共に戦う仲間の中に、愛しのしおにゃんがいるというのに! 強い悪魔を使わない理由があるか? いやないッ!」
 見事な反語を展開した殻斗が拳をグッと握り締める。
「いいかルーキー、俺はしおにゃんの前で格好をつけたいんじゃない。か弱いしおにゃんは、俺が守らなくてはならないんだ。わかるな?」
 か弱いしおにゃん、というフレーズは元より、しおにゃんという単語のときだけ声のトーンがいちいち上がるのを努めて気にしないようにしながら、コクコクとうなずく。つまるところ偽神教会まで強い悪魔を入手しに来た、ということなのだろう。
 殻斗はふくよかな身体に似合わぬニヒルな微笑みを浮かべると、フン、とふんぞり返るように胸を張って階段を降りていった。

   * * *

 意気揚々と偽神教会へ向かった彼は、しばらくの後、ひどく難しい顔で階段を昇って帰ってきた。
「どうかしました?」
 殻斗がこちらを向き、声を掛けたルーキーが息を呑む。
 その顔は、先ほどと打って変わって――否。まだ付き合いの短い中とは言えど、今までに見てきた彼のどんな顔よりも冷たい眼をしていて、背筋を寒いものが駆け上がっていった。
「……あいつは、俺のお仲間だな」
 地を這うような低い声は、どこか自嘲気味な響きをともなっていた。ルーキーは心配と不安と困惑の入り混じった目をして、スマートフォンを胸のところで握り締める。それを見た殻斗が肩をすくめたような動きをして、ふ、と笑った。
「背中を向けたら撃ち殺されるってことさ」
 おそらくはあえて軽く言ってのけた言の葉は、それでも、いや、それだけに胸を突き刺した。だが、それでルーキーは理解した。彼はシリアにまで遠征していた元傭兵で、教会の神父、ヴァギト・チューホフは旧ソ連時代の軍人だったはずだ。シリアは、古くからソビエト連邦との友好国である。シリアに出征していた彼にしてみれば、少なからず複雑な気持ちを抱いても不思議ではない。
「殻斗さん! でも、今のあなたは、もう、」
 言い募ろうとするのを遮って、殻斗は見た目よりもはるかに洗練された動きで振り返り、後ろ向きのまま片手を上げた。
「ルーキー、俺がここに来たことはしおにゃんには内緒にしてくれよ」
 確かに彼は、金銭をもらって人の命を奪っていたのだろう。けれど、ルーキーが今見ているその背は、決してその過去を悔いているだけのものではなく――強い漢の、少しばかり肉付きがいい背中だった。

(2018/04/17)
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『想吻イ尓』


 米国の心理学者マズローによれば、食欲というものは、欲求段階説の中で最も底辺に位置する基本的かつ生理的欲求として挙げられるもののひとつだ。生物が生命活動を維持するために必要とするものだが、それはそれとして、食事というものは人間の本能を満たすばかりでなく、肉体の健康と心の豊かさを保つ。
 リベレイターズの活動はあまり肉体的とは言い難いが、それでも空腹にもなれば疲労も溜まるし、もちろん達成感もある。そんな中で仲間と行う食事は、ジュンユンにとっても楽しいひとときだった。
「そういえば、そちらでは蛋包飯ダンバオファンと言うそうですね」
 一皿ずつ丁寧にテーブルへ並べていく福本が、自身とソン・シャンの椅子の間で配膳をする際、そんなことを言った。
「そうです。私もとても好きな食べ物です」
 わざわざ調べてくれたのかもしれないと思うと悪い気はしないものだ。にこやかに返して隣に目を向けると、シャンもまた目前に出されたそれを覗き込みながら嬉しそうにうなずいている。
 今日の夕食のメインは蛋包飯、つまり日本で言うオムライスだった。
 仲間それぞれに何をかけるかをメイドの有紗が尋ねていき、ふわふわとした黄色い玉子の上にデミグラスソースやホワイトソースをかけていく。そうして自分のところに順番が回って来たとき、とあるアイディアを思いついたジュンユンは、彼女が問いかける前に片手でそれを制止した。
「普通のトマトケチャップはありますか」
「……市販のものでよければ、真っ赤な血のような市販のケチャップがあるわ」
 返ってきた答えは多少物騒ながら満足のいくものだ。それを使いたいと頼むと、有紗が取りに行っている間に隣へ耳打ちする。
「シャンもケチャップにしませんか? 私が絵を描いてあげます」
「え? 本当ですか? それじゃあ、頼みます」
 楽しみだなあなんて幼く笑う姿は、心底可愛らしく映った。
 程なくして持ってきたケチャップを受け取り、シャンのオムライスの表面にサラサラとケチャップで線を描いていく。多少コツは必要だが、力加減さえ誤らなければそう失敗するものではない。
「完成です。どうです、なかなかのものでしょう?」
 湯気を立てる黄色いキャンバスに描かれた、ホラー好きの彼が喜びそうな目玉のイラストと――プレートの空白に踊る、赤い中国語の三文字で、シャンは大きく目を見開いた。
「ジュンユン、これは……っ」
 悪戯を叱る耳元の声は、戸惑いと恥じらいとを含んでいる。
「嫌、ですか?」
 想像していた以上の愛らしい反応に思わず追い打ちをかければ、シャンのやや白い肌は赤みを増した。そこにひとつウインクを送ると、はにかんだ顔を隠すようにオムライスに手を付け始める。
 あたふたと一番最初に消されてしまったその三文字は、上海出身の彼になら伝わるはずの愛の言葉だ。
 ――マズローの唱えた生理的欲求には、無論性欲も含まれる。美味しい食事で食欲を満たしたなら、さてお次はどうしようか。
 トマトケチャップがシャンの唇を赤く染めていくのを見ながら、ジュンユンはそっと舌なめずりをした。

(2018/04/18)
『イ尓』は通常一文字です(文字化け回避のため)
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Many-worlds


 白いシャツと青いボトムスを着た、一人のデビルダウンローダーがいる。スマートフォンを利き手に、反対の手にはコーヒーチェーンでテイクアウトしてきたスリーブ付きの紙コップを持ってあてどなく縄張り内を歩き、絡んでくるアコライツのダウンローダーを返り討ちにするのが彼女の日課だった。何か強い使命感に燃えているわけでも、義憤に駆られているわけでもない。ただ、悪魔召喚アプリをダウンロードした日から、彼女の中の何かが叫び続けているのだ。戦わねば。戦わねば。
 ダウンローダーの襲撃はいつも唐突だ。便宜的表現として現実から隔離されるデコヒーレンス領域の中、手馴れた様子でアプリを操作する。名前を呼ぶよりも先に出現したケルベロスは、主人の傍らに寄り添うようにして猛々しい雄叫びを上げた。彼女は満足げに微笑んで、残りがわずかとなった紙コップのリッドを外し、中身を飲み干した。
 戦いを終えると、彼女は、あらゆるものの干渉を取り戻した世界――この吉祥寺の街へと、コーヒーの香りだけを残して消えていく。その名を知る者はいない。ただ、デコヒーレンス領域が失われる直前、彼女は顕現を終えゆくケルベロスに向かって、慈しみをこめて言った。
「お疲れさま、パスカル」
 そしてまた、彼女の中の何かが告げる。――戦わねば『また』喰われるぞ、と。

(2018/04/18)
真1のとある人がD×2だったらみたいな超妄想です
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ふせさんちのきょうのごはん


 ここは秋葉原にあるリベレイターズの東京支部のアジト兼シェアハウス。その広い共有スペースにある『MEGAKIN VIDEO』と大きく映し出されたスクリーンの前で、アフロヘアーの男が仁王立ちをしている。
 彼こそが人気メガチューバーでありリベレイターズ東京支部長であるメガキンその人だ。余談だが本名は布施太郎である。
 メガキンの前に所在なさげに立っているのは、つい数日前に加入したばかりの新人ダウンローダーだった。
「ルーキー、これから厳しい戦いに身を投じるきみに、伝えておきたいことがある」
「な、なに……?」
「本当に突然のことなんだが、実は――」
 身構えるルーキーに、メガキンは一旦長いまつげを伏せる。ブラウンの視界を開くと、その整った顔はまったく深刻そうな顔つきになった。しかし長くは続かず、すぐにいつも通りの明るい表情に戻すと、
「このシェアハウスは当分の間、家事分担制かつ当番制かつ定期交代制になった」
 重要と言えば重要な、しかし厳しい戦いとは無縁と言えば無縁のことを言った。
「執事さんがしばらく研究に集中するんだよ。リアルの生活は大事にしてもらわなきゃな。なにも執事さんに限ったことじゃないぜ。リベレイターズの活動はもちろん大事だが、非常事態以外は自分を優先してくれればいいさ」
 肩透かしをくらってぽかんとしているルーキーの肩を叩くと、メガキンは口の端を吊り上げる。
「ま、分担制とは言ったが、こう見えて料理には自信があるんだぜ? 要するに炊事はこのメガキンに任せてノープロブレムってことさ。――OK?」
 こうして、メガキンクッキングの毎日が幕を開けた。

(2018/04/24)
タイトルでおわかりの通り、例の漫画のパロです
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 咲いている。咲いている。道端に鮮やかなツツジが咲いている。前を歩く二人の会話に花が、そして学び舎では見ることのできないような華やかな笑顔が咲いている。
 私はきっと外から見てそれなりの家柄の家で生まれ育ったのだろう。だから、家柄に即した九段下女子学園に入ることに対しても疑問はなかった。
 物静かな所作、淑やかな微笑み、厳格な校風。あの事件の際、学園を訪れたリリンが言った超お嬢様学校や古風という言葉は、憧憬や先入観から来るものであって決して揶揄ではない。学園がたゆまぬ努力で保ち続けてきた印象であり、その結果で獲得した外部からの評価でもある。ただ確かに、教師も生徒も親も誰彼もがその雰囲気ブランドに縛られ、そこからはみ出る人間や行為を許さない空気を内外に与えているのは事実で、私もまた、その内部の人間だったのだ。
 だから、リベレイターズに入って彼女たちと過ごす時間は新鮮だった。
「ねえ、ツツジの蜜って吸ったことある?」
 リリンが振り返って、いつの間にやら摘んだツツジの花を差し出してくる。受け取ってはみたものの、普通の女の子がする遊びなんて知らない私には、そもそも蜜を吸うということ自体が想像もつかなかった。
「これを、蝶みたいに吸うのですか?」
「下から吸うんだよ。こうやって」
 横に並んだルーキーは、花のがくの部分を柔らかくねじり切って、そこに口をつけた。衛生面が、なんて気にする間もなく、私の目は彼女の口元に釘付けになる。ちゅうちゅうと音を立てて吸う様子は少女のようにあどけないのに、ツツジを口に咲かせたまま向けてきた視線が、なんだかひどく艶めかしく見えた。
「――おいしそうですね」
 無意識に発した音が自身の耳に届いて、はっとする。私は今、何を見て、何を思って、何を言った?
「うん、甘くておいしいよ。でも、子どもの頃にやったときは、もっと甘く感じたような気がする」
「まーおいしいスイーツとか食べて舌が肥えちゃってるもんね。うちのお店のパンケーキとか、ほんっと甘くてさあ」
 何も気付かなかった二人は他愛ない話を続けながら、花弁の綺麗そうなツツジをそれこそ蝶のごとく順番に摘み、花を銜えていく。
 私も知らないふりのまま、見よう見まねで花の下をちぎり、口をつけた。
 生の植物特有の青臭さと、甘い蜜が同時に広がっていく。これが、彼女の口腔を侵して/犯していたのかと思うと、足裏や背中がむずつくような感覚に襲われた。
「どう、おいしい?」
 ルーキーが毒々しいほどピンクのツツジを持って、私を覗き込む。
 この新しい友人は知らなかったことを教えてくれる。知らないことを知るというのは、私の倦んだ日々や固定観念を壊して、新しい感情を呼び込む。
 この感覚は、この感情は、この味は、とても甘美だ。
「ええ、おいしいです、……とても」
 静かに、噛み締めるように答える。
 咲いている。咲いている。甘露を溜め込んだツツジが、それを吸って濡れる、鮮やかなピンクを映した唇が。ああ、咲いていく――私の中の、新しい想いが。

(2018/05/09)
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Those glasses suit you.


 マットレスの真横にあるはずの温もりがない。そのことに気がついた途端、断続的な眠りが途絶えてしまった。枕元のスマホを触れば青白いライトが点灯し、示される時刻は深夜2時過ぎ。汗ばんでいた肌も、何度も喘いだ喉も、どちらも見事にかわいてしまっている。
 ぼうっとしていた意識がゆるゆると正常に戻ってくると、隣の温もりが完全に冷えていることがわかった。隣にいたはずの彼がベッドを下りてから、それなりに時間が経ったということだ。どこに行ったのかと首だけを動かして部屋を見渡す。さほどの苦労もなく少し離れた場所で光る端末のブルーライトが目に入った。
「ん、起こしちゃったか……。悪いね、ちょっと急ぎの確認事項だったんだ」
 私が首をもたげたのと同時に、端末を見ていた顔がこちらを向く。
 寝ている私に気を遣って部屋の電気を点けなかったことにも、わざわざベッドから離れた場所で端末を見てくれていたことにも、私が目を覚ましたことに気づいて端末を閉じてくれたことにも、すべてに彼の優しさが表れている。胸がじんわりと温まるのと同時に、下着のみを身に着けた上半身裸の彼の――メガキンの姿に、顔が熱くなった。
「メガキンって眼鏡かけるんだ。知らなかった」
 かぶりを振ることで、大丈夫、と暗に示した後で、照れ臭さを隠してそんなことを言う。
「これはオフ用のブルーライトカット眼鏡なんだよ。まさか似合ってないとか思ってる?」
 動画配信者らしく他人からの見た目を気にするメガキンのことだ、オフ用と言いながらもお気に入りなのだろう。ソン・シャンのそれとはまったく異なる、縁の太いウェリントンタイプの眼鏡をクイッと持ち上げ、少し斜めの角度になってキメて見せた。
「ううん、いつものゴーグルと違うから、ちょっと違和感はあるけど……よく似合ってる。いつもより理知的な感じ、っていうか……」
 上半身を起こして、ベッドサイドのミネラルウォーターに口をつける。
「『っていうか』?」
 一度途切れた言葉を追うようにして、メガキンがベッドへと戻ってくる。眠っているうちに一人となっていたマットレスに、再び二人分の体重がかかった。
「なんだか、『メガキン』っていうよりも『太郎』って感じがする」
「おいおいルーキー、本名はよせって言っただろ?」
 くつくつと笑い合うと、メガキンは猫がじゃれるようにしながら私の上にまたがる。
「……ま、ベッドの上じゃ、コードネームの方がシラケちまうね」
 組み敷かれた形になって、メガキンの顔を見上げる。
 まだ朝の遠い闇の中、眼鏡の奥の少し熱っぽい眼差しに気がついて、私の心臓が強く高鳴った。薄手の肌布団一枚に隠した肌が、ゆっくりと露わにされる。もう何度となく交わした行為だというのに、私はまだ慣れきれずにいる。
「あの……よかったら、眼鏡のままで……して、ほしい……」
 なんだか眼鏡の彼はひどく大人びていて、いつもと違う魅力があった。それが外されるのはもったいなくて、おずおずとかすれた声でお願いすると、メガキンは少しだけ瞠目した後、小さく口笛を吹く。
「きみが眼鏡フェチとは知らなかった。……リスナーのリクエストには応えなくちゃな」
 悪い気はしなかったのかもしれない。冗談めかしながら、けれどとても満足げに唇を和らげてうなずく。そうしてゆっくりと肌布団の中に入ってくると、優しい抱擁と口づけが交わされ、ベッドには二人分の熱が籠もり始めた。

(2018/07/27)
thx:フォロワーさん(『眼鏡のメガキン』ネタ)
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新月


 調べ物に夢中になると時間を忘れるのは、彼の悪い癖だ。それを一度指摘したところ、トレーニングに夢中になると疲労を忘れるジュンユンと同じですよ、と返されてしまったので、それからはあまり言わないようにしている。
 だが、時間はともかく、食事を忘れるのはいただけない。
 そもそも彼は食事に対する執着があまりない。パソコン作業をしながら片手で栄養補助食品のようなものを食べていることがほとんどで、栄養もカロリーも不足している。両親から愛情のこもった食事を与えられていなかったせいですかね、と自嘲気味に笑っていたが、その結果は悪影響として確実に彼の肉体に現れている。
「シャン、ずいぶん熱心ですね。またメガキンからの頼まれごとですか?」
 アジトに帰ると、シェアスペースに彼がいる。
 外敵と喧騒をシャットアウトする結界の中、断続的に響いていたキーボードを叩く音色は、声をかけたのを機にぴたりと止んだ。
「ええ、午後が休講だったのをいいことに色々と言いつけられちゃいました」
 返答を聞いて、時計を見る。今は夕刻だ。
「……お昼は食べましたか?」
 腕を組んで問いかける。「あー」という思い出した声が聞こえたので、おそらく答えはノーだろう。まったく彼は本当に自分の身体を大事にしない人だ。
「以前も言いましたが、食事と睡眠はきちんと、――何かおかしいことでも?」
 ふと彼が笑っているのに気付いて、首をかしげる。こちらは真剣に話をしているつもりだったが、はて、妙な日本語でも使ってしまっただろうか。
「すみません。少し……嬉しいなと思って」
「嬉しい? なぜです?」
「だって、俺の親はこんなにも俺を気にかけたり、心配してくれたりしませんでしたから」
 その笑顔に、ただ閉口する。
 彼のその顔は、嬉しそうでもあり、寂しそうでもあり――その実、心底忌々しげにも見えたのだ。
「……大事な仲間です、心配するのは当然でしょう」
 絞り出した言葉で、彼の笑顔に含まれていた闇が消えていく。
「うん、本当に――みんなと出会えてよかった」
「私もです。……そうだ、シャン、この後みんなとご飯でもどうですか。メガキンにご馳走してもらいましょう!」
「ああ、いいですねそれ」
 つとめて明るく話題を変えると、彼も笑う。
 残ったのは、笑顔。それがどうか本物であるように、長く続くように、そう願うばかりだ。

(2018/10/14)
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新月:二律背反


 調べ物に夢中になると時間を忘れるのは、彼の悪い癖だ。それを一度指摘したところ、トレーニングに夢中になると疲労を忘れるジュンユンと同じですよ、と返されてしまったので、それからはあまり言わないようにしている。
 だが、時間はともかく、食事を忘れるのはいただけない。
 そもそも彼は食事に対する執着があまりない。パソコン作業をしながら片手で栄養補助食品のようなものを食べていることがほとんどで、栄養もカロリーも不足している。両親から愛情のこもった食事を与えられていなかったせいですかね、と自嘲気味に笑っていたが、その結果は悪影響として確実に彼の肉体に現れている。
「シャン、ずいぶん熱心ですね。またメガキンからの頼まれごとですか?」
 アジトに帰ると、シェアスペースに彼がいる。
 外敵と喧騒をシャットアウトする結界の中、断続的に響いていたキーボードを叩く音色は、声をかけたのを機にぴたりと止んだ。
「ええ、午後が休講だったのをいいことに色々と言いつけられちゃいました」
 返答を聞いて、時計を見る。今は夕刻だ。
「……お昼は食べましたか?」
 腕を組んで問いかける。「あー」という思い出した声が聞こえたので、おそらく答えはノーだろう。まったく彼は本当に自分の身体を大事にしない人だ。
「以前も言いましたが、食事と睡眠はきちんと、――何かおかしいことでも?」
 ふと彼が笑っているのに気付いて、首をかしげる。こちらは真剣に話をしているつもりだったが、はて、妙な日本語でも使ってしまっただろうか。
「すみません。少し……嬉しいなと思って」
「嬉しい? なぜです?」
「だって、俺の親はこんなにも俺を気にかけたり、心配してくれたりしませんでしたから」
 その笑顔に、ただ閉口する。
 彼のその顔は、嬉しそうでもあり、寂しそうでもあり――その実、心底忌々しげにも見えたのだ。
「……大事な仲間です、心配するのは当然でしょう」
 絞り出した言葉で、彼の笑顔に含まれていた闇が消えていく。
「うん、本当に――ジュンユンと出会えてよかったですよ」
 少しはにかんだような顔で、頭を掻く。
 細い腕、白い皮膚、愛らしい表情――消えた彼の負の感情とは逆に、自分の中にダーティーな感情が渦巻いていく。
 彼のことが心配なのは本当だ。きちんとしたものを食べてほしいし、しっかりと眠ってほしい、自分を大事にしてほしい。だが、その実、彼の痩躯が猛る自身を受け止めることを思うと、どうしようもないほど劣情を催してしまうのも正直な気持ちだった。
 たやすく組み敷くことのできる細い身体も、吸い上げれば赤々と鬱血する白肌も、ひとつひとつの愛撫に恥じらう表情も、全てが彼の性的魅力だ。
 無論、彼の魅力は肉体だけではないのだとしても、それでも、
「……ジュンユン?」
 下から覗き込まれ、どくん、と心臓が跳ねる。
 ああ、今はいけない。今は“獣の方の自分が目を覚ましている”から、だから、そんな顔でこちらを見ては、
「どうか、しました?」
――抑えが、きかなく、なる。
「……いいえ、シャン。私も」
 手を伸ばす。腰を抱く。引き寄せる。
「私も、あなたに会えてよかったと思っているだけですよ」
 か細い顎を持ち上げて、無抵抗な瞳を見下ろす。
 そのまま、お世辞にもすごく血色がいいとは言えない唇を――健康的でない肉体を貪り尽くしてしまおうと、“俺”は、牙を剥いた。

(2018/10/14)
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逢いたかった


 世界の終わりは、ひどくしじまに満ちていた。
 静寂と言いながら、寂しさを表す吹き荒ぶ風、風化と破壊に崩れる瓦礫、覇権を握り猛々しく吠える悪魔の咆哮がアンビエントを奏でる。
 そこに、人類を救うためにすべてを捨てた独りの女がいた。
 仲間と別れた数年前は少女だった。今はいくらか大人びた顔をして乾いた風に身を晒している。
 元より口数は多くなかった彼女だが、この退廃した未来の世界においては、より一層口を開かなくなっていた。
 ICBM――大陸間弾道ミサイルは、まさに彼女が守ろうとした街に降り注ぎ、すべてを奪い去った。残ったのは瓦礫と悪魔だけだ。何もかも――彼女が唇を噛んで選んだ選択肢の何もかもが無駄だった。
 それでも、ああ。ああ……ようやくこれで休めるのだと、実に久方ぶりの微笑みを唇に乗せて、まぶたを閉じる。
 最期の瞬間、まぶたの裏に、仲間と、『彼』が浮かぶ。
「おかえり」
 幻が、優しさをもって迎える。
 ああ、ようやく、あなたに、逢える――。

(2018/12/17)
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