「この家を継ぐ弟を大事にしなさい。第一に考えて生きなさい」
それが、わたしに与えられ、植え付けられた教え。
けれどもちろん、それとは別に――わたしは、わたしを慕ってくれる幼い弟を愛していたし、守りたいと心から思っていた。
だから“あのときも”、その想いは忠実に守られた。
「姉ちゃん……」
八つの歳になり、とっくに辿々しさなど卒業した高い弟の声で、ふと農作業の手を止める。弟は何やら空を見ながら不安げな表情だった。わたしも、同じように見上げてみる。
「なんだか、雨が降りそうだねえ」
空は、曇天。それは雨が降る直前だとかいう程度ではなく、まるで夜に等しい暗さだった。
先ほどまで作業に適したお天気だったはずだけど――そう思い当たったのとほぼ同時、わたしは体中に妙な悪寒を感じた。
両親をはじめ、周囲の大人たちはまだ誰も空の異変に気がついていないようだった。反対に、弟の不安そうな表情は最初よりもますます強まっている。子どもの方がこうした“おかしなこと”には敏感だという。もしかすると、弟は真っ先にこのおかしな空気を感じ取っていたのかもしれない。
「父さま、母さま、ひどい雨が来そうだよ!」
大きな声を張り上げると、やっと暗雲に気がついた父さまが「一足先に家へ戻りなさい」と言った。大人たちは軽い片付けをしてから帰るのだろう。わたしたちは手に持っていた農具を側にいるお手伝いの人に渡して、里への道に出た。
わたしの家は農家の中では大きい方で、それなりの数の、それなりに広い田畑を持っていた。だから、里の中でも父さまは顔が利く人だったし、里に何かあれば身を切ってでも助けるような人だった。そういうこともあって、わたしたちの田畑は少し里から離れた場所にあるにも関わらず、里の人たちが日がな手伝いに来てくれるのだった。
そんな大人たちでも結構時間のかかる里への道を、弟の手を取って歩いた。そうしている間にも空はどんどんと暗くなっていく。周囲は田んぼだらけのあぜ道。雨だけならまだしも、雷でも鳴るとちょっと困る。
「ね……姉、ちゃん……」
自然と早くなる足取りにも弟は必死でついてきてくれていたが、途中でついにかすれた声でわたしを呼び止めた。さすがに早かったかなと後ろを振り返ると――
「なに、これ……」
そこには、曇り空が作り出した仮初めの夜に浮かぶ、青黒い幽霊のような化け物がいた。
鼻血を出したときみたいな、転んで口の中を切ったときみたいな、血の匂いが辺りを覆っていると気づいたときには、わたしの足は化け物とは反対方向に走ろうとしていた。
「――姉ちゃん、父ちゃんと母ちゃんは?!」
弟の叫びを、わたしは泣きながら無視をした。
我が身が可愛かったわけじゃない。もちろん、それもある。でも、わたしはずっと、弟が産まれたときからずっと、弟を守るために生きてきたのだ。ならば今、自分がするべきことはただ一つしかない。
父ちゃん母ちゃん、と泣く弟と、父さま母さまごめんなさい、どうかご無事で、と泣くわたしがあぜ道を駆けていく。
息が切れる。足がもつれる。弟を引く腕の感覚が消えていく。乾いた喉がヒュウヒュウと音を立てる。――だというのに、よどんだ空気はわたしたちの真後ろにすぐに追いついた。
その寒い空気が、鋭く動く。
後ろなんて見ていられないけど、とにかく動いたのがわかった。その動きが、わたしたちにとって命の危機であることもわかった。弟の腕を思いっきり引っ張って、わたしの前に放り投げるように飛ばす。その拍子に二人とも転んで、それが幸いしたらしい。わたしの頭の上すれすれのところを、何かがすごい速さでかすめていった。後ろなんて振り返る余裕はない。ただ、視界の端の、本当に隅っこの方に、爪のような骨のような鋭いものが見えた気がする。
腰なんてたぶん抜けているし、膝も笑いっぱなしだと思う。でも、死の恐怖を前にしてそんなことを言っていられなかった。家のただ一人の跡取りを。わたしのただ一人の愛しい弟を。わたしが守るって決めたんだから。
目の前で立ち上がれずにいる弟を無理やり立たせて、もう一度走り出す。
この子を守るって決めた。守ると決めた、けど――どうすればいい? わたしは非力で、こんな化け物と戦うなんてできなくて、囮になってもきっと一瞬で終わってしまう。じゃあどうすれば、弟をこの化け物から助けてあげられる?
息が続かない。足が動かない。頭がうまく回らない。走るのだってもう限界だ。
この子を、弟を守るための何か、何か――そう願うように考えていたとき、その“何か”は、突如として目の前に現れた。
「えっ……?」
それは夜のようなこの場にあって光のように。何もないあぜ道の真ん中から光がふつふつと湧くように。まるで救いの神様のように。
走っていたわたしたちの目と鼻の先に忽然と現れた光の粒は、徐々にまばゆさを増していく。
やがてその光が消え、そして――人の形が、残った。
その人は、赤土色の髪の毛と琥珀のような色の瞳を持った殿方だった。
「……へえ、こいつは妙なことに巻き込まれちまったモンだ」
右手に持っていた、鮮やかな裏地に大きな菊の刺繍が入っている白い長着らしきものが、若々しい声とともに羽衣のように棚引く。
逃げる足すらも止め、わたしはその人に目を奪われていた。
神がかり的な現れ方をしたから、ということもある。けどそれ以上に、一目見た瞬間から、この人なら信じられると思ったのだ。わたしにとって、弟にとって、救いとなるお方だと心の底から思った。
「あ、あの……!」
転がるように殿方の足元に縋りつき、整わぬ呼吸のまま早口で話す。
「どなたか……存じませんがっ、お逃げ、ください……! 化け物がっ……化け物が、追って来ます!」
「ああ? 化け物だ?」
殿方は不機嫌そうな声で問い返す。わたしはただただ必死でうなずいた。
「は、はい……ッ、幽霊のような、化け物です……! そ……それで、見知らぬお方に、お願い、することではありませんが、わたしの、弟、も、連れて逃げてくださいませんか……!」
険しい顔のままの殿方ではあったが、それでも決してまさかと鼻で笑うようなこともなく、不躾にも突然足にしがみついたわたしをまっすぐに見つめて話を聞いている。
「も、もう、わたしは走ることができません……! ですから、どうか、わたしを置いて、わたしを囮にして、その間に――」
「そいつは聞けねぇ頼みだな」
ああ、このお方ならきっと、きっと、弟を助けてくださる。
話を聞く姿ひとつでそう信じていたわたしは、途中でつっけんどんに断られて愕然とした。目の前が真っ暗になるとはこのことだろう。ほんの一時、呆然としてしまったわたしは、すぐに我に返ってもう一度殿方に縋りつき直す。
「そんな……、どうぞ後生です、わたしの、わたしの弟を……っ」
ポン、と。泣きじゃくるわたしの頭に柔らかな重みが与えられる。導かれるように見上げると、琥珀色の眼差しがまっすぐにこちらを向いていた。
「誰がテメェらを捨て置くと言った。おまえさんも、おまえさんの弟も、見捨てやしねぇよ。だからこの場は
口調とは裏腹に優しく響いた言葉の後、わたしと齢の近い男の子みたいに笑って――頭をくしゃくしゃと不器用そうに撫でてくれた。
それから、よっこいせ、などと言いながら殿方は立ち上がり、白い長着を大きく翻す。弟をわたしに渡すと、かばうようにわたしたち二人の前に立ち、後ろに追いついてきた化け物と対峙する。幻聴だったのか、キィン、と鉄を叩くような音色が耳の近くで響いた。
「現界して早々厄介ごとたぁ、神さんもお人が悪い」
濃い朱の布に包まれた左腕に一振りの刀を下げ、少しだけにやっと口元を歪める。
「悪鬼、物の怪、化生の類、上等だ! 一丁様斬と行こうじゃねえか!」
その頼もしい横顔を、眼前の恐怖も泣くことすらも忘れて見惚れる。目を逸らせないまま、わたしはきっと――この奇跡のような出会いを死ぬまで忘れることはないだろうと、そんなことをぼんやりと考えていた。