化け物に追われている。怖い。危ない。弟を守らないと。逃げないと――そんな気持ちだけで、ただ前を見て走り続けていた。
だから、たくましい背中にかばわれて初めて気がついたけど、わたしと弟を追いかけていた化け物は三体もいたようだった。けれどその人が、手にしていた刀を無造作に二振りしただけで、その化け物たちはうめき声だけを残して驚くほど呆気なく消えてしまった。
「なんだ。様斬にもなりゃしねぇじゃねえか」
毒づいてから、その人はまだ息も整い切らないままのわたしたちを振り返り、泣いている弟の頭を撫でてくれた。それから、わたしの方を見た。
「おまえさん、命を捨てるのは最後の最後までやめておけ。姉弟揃って五体無事、それに越したこたねえだろ? ――だが、若ぇのにいい心意気だ。そういう生一本な性分は嫌いじゃねえ」
弟の頭にあった大きな手が再びわたしの頭の上に宛がわれ、ポン、ポン、と二回叩く。その叩き方はとても優しく、その手はとても――お天道様のように温かかった。
空は未だに暗いまま。その中を、わたしたちは三人で歩いた。
わたしたち姉弟の命の恩人の名は、村正さんといった。里まで送るという村正さんに、田んぼに残した両親が心配だと伝えると、二つ返事でそちらへ向かってくれた。
到着するなり、弟はわっと泣いた。田んぼの真ん中で、父さまはまるで獣に襲われたような姿で亡くなっていたのだ。原因は先ほどの化け物なのだろう。わたしは唇を強く噛んで必死で泣くのを堪え、父さまに縋りついている弟の手を取って里へ歩き出す。里の大人に来てもらって、一分でも早く父さまの体を綺麗にしてもらいたかった。
里へのあぜ道は、ほぼ無言で歩いた。肉体も精神も限界だったのだろう、弟は途中で眠ってしまった。
「坊主なら
わたしが背負おうとしていた弟の体を、村正さんが代わりに抱え上げた。それから、少し睨むような顔をする。
「まったく、ガキが父親の死を前にして泣くのを我慢してンじゃねえ」
叱るような言い方だったけど、決して怖さを感じさせなかった。わたしは村正さんを見てから、その腕の中で、目のふちを真っ赤にしたまま眠る弟の寝顔を見る。途端、緊張の糸が切れたように、目からは涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「……、ッ……」
村正さんは声を殺して泣くわたしを眺めながら、「……強情っ張りだな、テメェは」と呆れたようにちょっとだけ笑った。
弟は里に帰るまで目を覚まさなかった。道中ずっと抱えて歩いてくれた村正さんには申し訳ないことをしたけど、でも、結果的にはそれで正解だった。
途中で、空は青く戻った。その青空の下の道では、田畑で作業をしていたであろう人たちの遺体がいくつも転がっていた。わたし自身は直視できなかったので詳しくはわからないけど、どの遺体も父さまと同じで獣にずたずたにされたような傷を負っているようだった。村正さんはひどく険しい顔で、さっきと同じ類の化生の仕業だろうとひとりごちてから、ふとその険を落として「坊主に見せずに済んでよかったな」と言ったので、わたしは心底その通りだと思った。
里に入るなり、母さまがわたしたちの元に駆け寄ってきた。村正さんはすぐに弟を起こして、地面に下ろした。わんわんと泣きながら縋りつく弟の横で、わたしは父さまのことを話した。母さまは顔を真っ青にして一度だけふらつく。でもすぐにその表情をきゅっと引き締めると、里の人たちに父さまや、他の方々の遺体を里へ持ち帰る手伝いを頼みに行った。
わたしや弟が母さまの後ろ姿を不安げに見ていたからか、村正さんが「心配すんな、おまえさんたちの母親はしっかりモンだ。ああ、そうか、お嬢の気丈夫なところは母親譲りってえわけだな」とわたしたちの頭に手を置いた。
それだけのことが、たったそれだけのことで。不思議なほど気持ちが和らいだのを、覚えている。
それからしばらくして帰ってきた母さまは自ら遺体を引き取りに行くからと、弟に家の留守を頼んだ。わたしも少し悩んでから、母さまに同行することにした。
村正さんはと言えば、わたしたちを守ってくれたことで母さまから散々お礼を言われてお腹いっぱいという顔をしていた。その後、わたしたちも父さまの遺体を迎えに上がる旨を伝えると、腕を組んでしばらく考え、それについてくることにしたようだ。
「さっきの化生が残ってねえとも限らねぇし、少しでも人手があった方が早いトコ弔ってやれンだろ」
つまらなさそうにそう言うと、母さまがまた頭を何度も下げるので、額に手を当てて辟易していた。
でもそのとき、たぶんわたしだけが見てしまったのだ。
うんざりしたような顔をして見せながら、ほんの少し面映げに目を逸らしていた村正さんを。そしてそれをわたしに見られたことに気付いて、きまりが悪そうにしていたのを。
あれから一ヶ月近くが経った。
あの日を境に、夜のような昼が訪れては、里の外を歩く人たちが被害に遭うという痛ましいことがごく稀に起こるようになった。わたしたちはその脅威と隣り合わせながら、毎日を懸命に生きている。
「こんにちは! お邪魔しまーす!」
わたしと弟は、里から少し離れたところにある庵を訪れていた。大きな声で呼びかけると、パタパタと元気な足音が響いて、ちょうど弟と同じくらいの年の頃の女の子が迎えてくれる。
「こんにちはー!」
赤子の田助くんを背負って出てきた子は、おぬいちゃんと言った。
おぬいちゃんと田助くんのご両親は、あの日の化け物に殺されていた。遺体を載せた荷車が里へ帰ってきたときに一番大泣きしていたのは、うちの弟とこのおぬいちゃんと、おぬいちゃんが泣いたことに驚いた田助くんだった。
「お嬢と坊主か。よく来たな」
もう一人、おぬいちゃんたちの後に続いて出迎えに来たのは、村正さんだった。
「村正さん、こんにちは。これうちの畑で採れた野菜です、どうぞ」
「おう、いつも悪ィな」
わたしたちの命の恩人である村正さんは、あの後、遺体を里まで運び、埋葬の手伝いまでしてくれた。この庵は、そのお礼にと母さまが惜しみなく差し上げたものだ。詳しいことは知らないが、なんでもこの庵は元々父さまの持ち家で、かつては鍛冶師の人へ作業場として貸し出していたそうだけど、今は空き家になっていたらしい。
偶然にも村正さんは刀鍛冶だそうで、願ってもないと、身寄りのないおぬいちゃんと田助くんを引き取ってこの庵に住んでいる。わたしと弟は、時折畑仕事の帰りに、こうして収穫したもののおすそ分けに立ち寄っているというわけだ。
「わあ、お野菜たっくさん!」
「おぬいちゃん、手伝ってもらってもいい?」
「はーい!」
わたしはおぬいちゃんと、野菜を洗ったり保存するために台所へ向かう。その後ろで、弟は顔の前で両手を合わせて剣の稽古をつけてほしいと頼み込んでいた。弟はここに来る度に剣を教えてほしいと頭を下げ、三度目くらいでその心意気を認められた。
「ったく、
文句をぶつぶつと言いながらも、村正さんは嫌な顔をしていない。
弟が村正さんを見つめる瞳は、いつも強さへの憧れできらきら輝いていた。結局のところ、村正さんはああいうまっすぐな眼差しに弱いし、そもそも面倒見がいい。文句自体は言うけれど、なんだかんだ真剣に刀の使い方を教えている。この間なんか、弟が疲れて眠ってしまったときに「あいつは筋がいい」なんて褒めてもくれていた。
弟はまだ幼いけど、いずれ家を継いで守っていく男だから、村正さんのような人にめぐり合えたことは幸運だったのだと思う。だって村正さんは、わたしと年の頃が一回りと離れていなさそうな見目にも関わらず、父さまや他の大人たちのような貫禄や風格がある人だ。
それに、落ち着いていて、一本気があって、腕っ節が強くて、素敵で――そこまで考えて、胸がひとつ大きく跳ねた。
「……っ!」
自分で自分の考えていたことに驚いて、野菜を手から滑り落とす。
「わあ、お野菜がころころいっちゃったねえ」
おぬいちゃんがすかさず追いかけて拾ってくれた。わたしに渡そうとして、かわいらしく小首をかしげる。
「おねえちゃん? お顔、あかいよ? お熱かなあ?」
幼子の無邪気な一言が、図らずもとどめとなった。
恋を知らなかったわたしは、この世で弟と同じくらい大事にしたいものができてしまうなんて思いもしなかったけど。でも、きっと、あの人に初めて会ったときから――
「……そっか……わたし、お熱なのかも……」
つぶやいた瞬間、あのお天道様みたいに温かい手のひらに触れられた頭がぼうと熱を持つ。
それが本当に病のように熱かったから、帰ったら氷嚢で冷やさなくちゃ、なんて考えながら、おぬいちゃんからそっと野菜を受け取った。
これがわたしの、初めての恋わずらいだった。