伝承の召喚師エクラが、ここ、アスク王国へやってきてから数ヶ月が経った。
 支配した各異界の英雄を操るエンブラ帝国のアスク王国への侵攻は、日ごとに激しさを増していく。ただ、以前は守りを固めるにも偵察するにも手一杯だったことを思えば、エクラが来てからは、この特務機関ヴァイス・ブレイヴの立ち回りもずいぶんと良くなったと言えるだろう。
 男は、私室の椅子で書物を開いたまま、機関のことを考えていた。考えながら窓枠に切り取られた青空を見上げ、無意識に自身の脇腹の上へ手を置く。
 彼は特務機関の隊員である。当然、これまでもエンブラ帝国との戦いにずっと出向いてきた。しかし、今まさに隊長のアンナ以下機関の隊員が任務に出動している、というときにも関わらず、男がこうして王都の中心に留まっているのには理由があった。
 帝国の皇女ヴェロニカに支配された異界を解放せんと出撃した先で、彼が不慮の出来事による深手を負ったのは一ヶ月ほど前のことだ。
 とは言え、その傷も塞がり、日常生活における痛みもほぼ引いた。あとは、鍛錬で戦の勘を取り戻さなくてはならない。医者とも、そろそろ戦線復帰をしても良い頃合だろうということで話はついている――というよりも、堅物で、アンナ曰くの鍛錬バカである彼を前に、医者も頷かずにはいられなかったというのが実際のところだ。現に、内臓を損傷していながら、体が鈍るからと、動かせる範囲のトレーニングを欠かさず、アンナからは相当な嫌味を言われていた。
 性分としては寛容で気前もよく、心優しい部類に入るだろう。が、この男、特務機関に勧誘される以前はアスク王国の兵士の中でも一際訓練ばかりしていたということもあり、言われる通りの鍛錬バカで、特に女性に対しては愚鈍で不器用がすぎる朴念仁なのであった。
 前述の通り、これまでは鍛錬ばかりしてきたこの男が、重傷のために意図しない休暇を得ることになってしまった。嫌味を言われる程度に体を動かしてはいても、実技などが行えないため、これまでから比べれば運動時間は激減している。
 手持ち無沙汰で困り果てた彼は、やむなく書庫から蔵書を持ち出し、これまで直感や野性の勘でやってきた戦術や武術を勉強することにしたのだが――何しろ回遊魚のような男である。動いていなくては死ぬレベルの鍛錬バカだ。本を読むという静的な行為が長続きなどするわけもなく、とりあえず表紙を開いたまま机の下で足先のトレーニングに勤しむという体たらくである。
 ところが最近、この読むともなしに読んでいる勉強の最中に、雑念が浮かぶようになってしまった。それは考えないようにと思えば思うほどに強くなり、今ではそのことばかりを考えてしまう。
 おそらく、つい先日までの彼を知る者が見聞きしたならば、その全員が目を見張るだろう。あの鍛錬バカが物思いに耽っているなどどういうことだ、と。
 しかし、他人にどう揶揄されようとも、男は考えずにはいられないのだった。
 この青空の下、彼女の槍は冴え渡っているだろうか。彼女は、無事にこの城へ帰還するだろうか。そして――あのまぶしい笑顔は、やはりもう自分には見せてくれないのだろうか、と。
 窓から入り込んだ風が、無用の書物を数頁ほどはらりはらりとめくり戻した。



 アスク王国の第一王子アルフォンスと、その妹である第一王女シャロンは、王族という立場でありながら、特務機関の一員としてエンブラ帝国との戦いに参加している。
 男は二人と旧知の間柄ゆえに、機関内でも懇意にしている。中でも、シャロンとは同じ槍術を用いる仲間だ。戦いの最中で行方がわからなくなってしまった槍使いのザカリアからともに槍術を学び、ともに鍛錬をしてきた。人生の中でも、かなりの時間を一緒に過ごしたと言って差し支えはないだろう。だが、長きをともに過ごしたとは言え、二人の間には決してそれ以上の想いはなかった。
 シャロンは、王女や特務機関の人間である以前に、人懐っこい笑顔が印象的な、明るく元気な年頃の少女だった。最近は、ずっと憧れ続けた伝承の召喚師エクラの活躍を前に、彼女の足は地に着いていない。片や、何度となく述べるが鍛錬バカの男だ。そんな二人に色恋の何かなど生まれるわけもなく、背中を任せられる親しい仲間としてこれまで来た――のだが。
 一ヶ月前、まさに彼が重傷を負って戦線から離脱したとき、二人の関係は崩れたのだった。
 槍騎兵である彼は、先陣を切って戦場を馬で駆け抜け、前衛の隊列を崩すのが主な役割だ。乱れた隊列をさらにかき回し、馬上から長い槍を振りかぶり、敵をなぎ払い、軍勢を穿つ。そして、ある程度の片をつけると、高い位置から戦況を一瞥し、直感でここ、という場所を判断してその場へ突撃していく。
 ――あの日。素早く見渡した戦場に、撹乱させたはずのエンブラ兵が集まっている場所があった。
 エンブラ兵は輪を作り、一人の人間を包囲している。その輪は決して容易に直径を縮めることはなかったが、倒されては駆けつける援軍ゆえに、広がっていくこともなかった。
「シャロン!」
 中心に位置するのは、フェンサリルという名のハルバードを振るうシャロンだった。
 その美しく整った顔には日頃の親しみ深さなど欠片もなく、戦乙女そのものの勇ましさをたたえている。フェンサリルを一振りするごとに揺れる髪は、この血生臭い死地にあってなおも金色に輝いた。
 シャロンは迷いのない槍さばきで次々と敵を討っていく。個としての技量ならば、エンブラ兵相手に遅れを取ることなどはない。しかし多勢に無勢。いくら力量で勝っていても、いずれは体力の限界が訪れるだろう。それまでに彼女の元へ向かわねばならないと、唇を強く結ぶ。一人斬りかかってきた兵をいなし、次に定めた戦地へ向けて馬の腹を強く蹴った。だが、エンブラ兵は攻撃の手を休めることなく、その行く手を阻む。
「邪魔を……するな!」
 半ば無理やり馬を動かそうと、いささか大振り気味に敵兵を遠ざける。槍の師であり親友であるザカリアがいれば、今の彼が振るう槍を「焦りが出ていてみっともないぞ」と酷評しただろう。そこへ今度は矢が飛んできて、男は歯噛みした。そう遠くない距離だというのに、彼女がまるで手の届かないところにいるようだ。さっと視線を走らせると、アルフォンスやアンナも、シャロンが孤立していることに気がつきながらも近づけないことに苛立っている様子だった。
 三人が焦りを抱いている理由は、ただひとつだ。
 あの日――我らが同胞のザカリアが覚醒の異界で行方知れずとなったのは、今のシャロンのように孤独な戦いの果てのことだったのだから。
「待っていろ、今加勢を――」
 矢や敵兵を払いのけ、その間隙を縫って馬を飛ばす。シャロンのいる位置までもうあとわずかというところで、男の背筋が凍りついた。彼女の斜め後方。同じ槍使いが、その背中を狙っている。
「シャロン! 八時の方向だ!」
「えっ……!?」
 戦場を切り裂く男の声が届いたのか、シャロンが咄嗟に振り返る。その視線の方向には、エンブラ兵の黒い甲冑があった。彼女は慌ててフェンサリルを振ろうとしたが、エンブラ兵の刺突の動きの方が確実に速い。大きく見開いた翡翠色の瞳で、迫る槍先をなすすべもなく見つめている。
 次の瞬間――シャロンのその瞳は、自らのものではない血を映していた。
 おそらく時間にして数秒もない間、呆然と目の前の光景を見ていたシャロンは、どさり、と重たい音とともに揺れた地面で我に返ったようだった。その顔は、ひどく青ざめている。
「ぐ……シャロン、ぼさっとするな! ここは戦場だぞ……!」
 男は、口から吐き出した血を袖で乱暴に拭い、一喝する。
 必死の思いで駆けつけた男は、咄嗟にシャロンと敵の間に割り込んだ。その背後を狙っていた槍は馬の腹に突き刺さり、痛みで激しくいなないた馬から振り落とされた。結果、なんとか彼女を守ることに成功したものの、ここは敵軍の集中する場所。落馬して体勢を整える間もなく、他のエンブラ兵の凶刃が男の腹部を深々と貫いたのだった。
 シャロンが再び心身とも戦線に戻ると、男は少し安堵したように微笑んだ。それから鬼神のような表情を浮かべ、どくどくと熱をもって血の流れていく腹を片手で押さえる。
 正直な話をすれば、穴の開いた腹部は、激痛などという言葉では言い表せないほどの痛みを訴えている。だが、寝転がろうが悶えようが座ろうが立っていようが、痛むことに変わりがないのであれば――戦い続ける方が余程気が紛れる、というのがこの男の考えであった。
 傷で立ち上がれない愛馬と、フェンサリルを振るうシャロンを背に置くようにして、気迫だけで立つ。槍を持つ手が血で滑るのを嫌って手袋を捨てると、血に塗れたそれはびちゃりと音を立てて地面に落ちた。
「地上で戦うのは久しぶりだ……さあ、行くぞ!」
 槍を構え、自らを強く鼓舞するよう猛々しく叫ぶ。その声は、後方にいたエクラの元まで届いたと言う。



 エンブラ兵と地上での交戦を始めてしばらくした後、彼の記憶は途絶えていた。次に目が覚めたときには、数日後の王都の医務室だった。
「目が覚めたかい? まったく無茶をして……心配したよ」
 様子を見に来てくれていたというアルフォンスは、開口一番で呆れた声を出した。だが、その端正な顔立ちに浮かぶ表情は、安堵に満ちている。
「先日の任務なら無事に終わったよ。君は、敵と戦っている最中に出血がひどくなって意識を失ってね。エクラの指示で僕とアンナ隊長が駆けつけるまでの間、シャロンが君をかばって戦ってくれていた。ああ、それと……君の大切な馬も、命に別状はないそうだ」
 さすがに長い付き合いだけあって、友人がまず気にするであろう任務の結果や経緯を手短に説明する。それから二、三言葉を交わすと、アルフォンスは医者を呼ぶために医務室を後にしていった。
 ――シャロンとの間に妙な空気が生まれるようになったのは、それからのことだ。
 男はもちろん、シャロンも戦場でのことは何も言わなかった。互いに互いを守ったのだ、借りも貸しもない。怪我をしたのも、自身の不注意でもあり、戦士として常に覚悟を持っていることだ。自分だけが傷を負ったなどと泣き言も恨み言も言うつもりはない。彼女とて同じ志を持った戦士なのだから、今更自分に何らかを思いわずらうようなこともないはずだ。
 しかし、事実――あの日を境に、シャロンは男に対して笑いかけることがなくなった。
 口数は減り、態度もよそよそしくなり、ともすれば顔を合わせることを避けているようにさえ思えるほどだった。あれほどの明るい人柄でありながら、あれほどの愛想の良い少女でありながら、シャロンの顔からは男へ向ける笑顔が消えてしまったのだ。
 何しろ男は朴念仁な上、安静にしていなくてはならず、人と会う機会も少なかったため、何日かはシャロンの変化に気がつかなかった。少ししてから、あの誠実な彼女が見舞いへ訪れないことを不思議に思い始めたが、それも忙しいせいだと思った。外出できるようになった頃、顔を合わせたときの様子がおかしいような気がしたのも、自身の勘違いだと思っていた。
 だが、違和感を抱えたまま一ヶ月が経とうとした頃、ようやく自分の感覚が間違いではないのではと思い至ったのだった。すると、途端にあの明朗な少女とともに槍の腕前を切磋琢磨していた日々が、ひどく遠いもののように感じた。はつらつと修練を積み、鈴を転がすような声で語り、ころころと表情を変え、可憐に笑うシャロンを、ほぼ毎日のように見てきたのだ。それが唐突に消えたとわかって、何か――何かとても大事なものが、自身の中から欠落してしまったような錯覚に襲われた。
 そこで男はようやく、シャロンという存在がどれほど自分の中に浸透していたのか、ということに気がついたのだった。



 物思いに耽っていた男がため息をつく。
 元々頭よりも体を動かすタイプだ、長時間の考え事は不可能に等しい。少し気晴らしをするために修練場へ向かうことにして、一度大きくかぶりを振る。ただただ形ばかり開いていた書を閉じ、部屋を出た。
 道すがら、西日が射し込む廊下の窓から外へ目を向ける。そこに、任務先から帰還した隊員たちが城門近くまで来ていたのが見えた。修練場へ行くついででもある、労をねぎらうために入り口へと降りる。すると、ちょうど先頭を歩いていたシャロンと目が合った。
「あ――」
 エクラに何事か楽しそうに話しかけていたシャロンは、男の姿を見るやいなや、その表情を曇らせた。
 失われて初めて実感することだったが、彼女の笑顔はとてもまぶしかった。王女という位に相応しいほど人に癒しを与え、そしてその実、王女という位に不相応なほどに親しみのある、魅力的なものだった。
 だが、それが自身に向けられることはなくなってしまったのだ。
 胸がきしむような痛みを覚える。肉体の痛みならこれまで何度となく耐えてきたが、心臓を掴まれるような内側の痛みは、これが初めてのことだった。
 ずきずきとする心臓を努めて無視して、彼は隊員たちに労いの言葉をかけた。シャロンは、小さく会釈だけをして――男の横を、沈痛な面持ちで通り過ぎていく。
 もう一度、今度はやや強めに胸を痛めた男は、自分の隣に人が立っていることに気がついていなかった。
「少し……いいかい?」
 声をかけられ、はっとして横を向く。そこには、シャロンの兄アルフォンスが、穏やかな表情で男を見ていた。



 周りの森から、ふくろうの声が届いている。
 男は、静けさと寒さを深めた夜の王都を歩いていた。夕刻、アルフォンスから聞いた話が真実かどうかを確かめるためだ。
 聞けば、アルフォンスもアンナも、シャロンの様子がおかしいことをずっと気にかけていたと言う。原因があのときの任務であることは察してはいたが、いくら見舞いに行こうと持ちかけても彼女は頑なに首を横に振り続け、その理由も話さなかったらしい。アンナは、男とシャロンの関係にひびが入ったまま、その原因がわからないままでは、二人一緒に任務にも出せないと困り果てた。それを聞いたアルフォンスは理由を調べることにしたのだが、結果は意外なものだったと、男に告げた。
 先ほど行きそびれた修練場の前まで辿り着く。夜更けで人のいないはずのその場所からは、空を切る音が響いており、男は中の様子をそっと窺った。すると、任務から帰って間もないというのに、修練場の中央でフェンサリルを振るうシャロンの姿があった。
 見えない敵を想定して足を払い、腕を斬りつけ、胴を突く。一ヶ月前、ともに出陣した任務先で見た戦乙女のような美しい横顔には大粒の汗がいくつも浮かび、その動きに合わせて飛んでいく。
「君が戦線を離れたあの任務の直後から、シャロンは夜中に一人で出かけるようになったみたいでね」
 蒼い髪を落日で赤く染めたアルフォンスの言葉が、頭を過ぎる。
「ある晩、どこにいるのか探してみたんだ。そうしたら、シャロンは修練場で技を磨いているようだった。それで、何度か様子を見に行くうちに気がついたんだけど」
 その話を聞いたときは、まさかと思った。もちろん彼が嘘などつく人間でないことは重々承知している。だが、男には自信がなかったのだ。だからこそ、自分の目で確かめようとここへ訪れた。そして、今目にしている光景は、まさにアルフォンスの言葉通りだった。
「シャロンが修練場に行くとき、決まって、二本の槍を持っているんだよ」
 一心不乱に鍛錬に励む彼女の、その傍らには――一ヶ月もの間、戦場で振るわれていない男の槍があった。それも、つい何日か前、彼が手入れをした以上に綺麗になった状態で立てかけられている。
「君はシャロンの自尊心を傷つけて嫌われたと思っているだろう? でも、違うんだ。合わせる顔がないと思っているのは、たぶん君ではなくて――」
 夜の風で冷やされた男の頭に、アルフォンスの柔らかい声音が思い出される。
 思えば、怪我を理由にして、いずれシャロンがいつも通り笑いかけてくれるだろう、話しかけてくれるだろうと、自分はただ待っていたばかりではなかったか。本当は、彼女の方こそがこの一ヶ月の間、責任を感じ、苦しみ続けていたのではないだろうか。
 どうして――そんな簡単なことにすら、気づいてやることができなかったのか。
 男は、事ここに至って初めて、アンナから言われ続けてきた鍛錬バカという言葉を自覚し、嫌気が差した。
「シャロン、入るぞ」
「……えっ、あっ?! ど、どうしてここに……っ?!」
 驚かさないように努めて小さく呼びかけながら、修練場の敷地に足を踏み入れる。が、その努力むなしく、彼女は面白いほど動揺を露わにした。見事な驚愕っぷりに思わず笑ってしまった男を見て、シャロンは頬を膨らませる。
「も、もうっ! 笑わないでくださいよーっ!」
 元気な声色が、あまりにも懐かしい。もうどれほどの間それを聞いていなかったのだろうかと咄嗟に思ってしまったのは、それほど男が求めていたことの何よりの証だった。
 男の眼差しが急に柔らかくなったせいか、シャロンは我に返った様子で、ぴんと背筋を伸ばす。
「あっ、えっと、そのっ、これはですね……」
 ぎくしゃくとした動きで振り向き、また自らの方へ向き直るのを、男は黙って見届ける。他人の槍を持ち出していたことを気まずく思っているのだろう。シャロンはしばらく困ったように地面へ視線を落とし、少ししてから真剣な表情を浮かべた。
「――ごめんなさい!」
 勢いよく頭を下げる彼女とともに、長い金色の髪が揺れる。
「あのとき……わたしのせいで、怪我をさせてしまって……怪我をしている姿を見て、怖くて、動けなくて……!」
 シャロンは、男の怪我の原因が自分にあると思い、あの状況を招いてしまった弱さを恥じていた。だから、せめて男が鍛錬に戻ってきたとき、胸を張ることができるようにと修練に励んでいたのだと話す。
「でも、ずっと一緒に戦ってきた二人がいなくなってしまって、心細くて……それで、槍を」
 そこまで言うと、しゅんと項垂れてしまった。彼女の言った二人というのは、おそらくは自身とザカリアのことだ。ずいぶんと不安にさせてしまったのだと改めて感じると、男の胸に、先ほどまでとは違う痛みが芽生える。
「いや……謝るのはこちらの方だ」
 特務機関の隊員だから、戦士だから、王女だから。そうやって役割や地位で彼女の志を勝手に決め付けて、シャロン自身の痛みを気遣うことができなかった。
 日頃からまぶしいほど人好きのする笑顔で楽しく話す彼女を、男はこの目で見て知っていたというのに――シャロンを一人の女性としてどれほど魅力的か知っていたというのに、一人の女性として慮ることができなかった。
 彼はそう告げ、粛々と頭を下げた。そう――朴念仁ゆえに、包み隠さず伝えてしまったのだ。
「え……あの……」
 当然のことだが、シャロンは首から上を今にも湯気が出そうなほど真っ赤に染め、ぱく、ぱく、と小さく口を開閉させる。少しして面を上げた男には、なぜ彼女がそんな顔をしているのかわからず、かすかに眉をひそめた。
「シャロン……?」
 問いかけると、シャロンは顔を上気させたままうつむき、首を横に振る。
「だめです……今、わたし、顔を上げられません……!」
 ついに両手で顔を覆ってしまったのを見て、男は目に見えてうろたえる。
 まさか自分の発言で恥じらっているなどと思いもよらず、ただ泣かせてしまった、さらに傷つけてしまったのだと思い込んだ。
「すまなかった、泣かせてしまうほどシャロンを傷つけてしまっていたとは……。本当に、他人の心の機微に気の回らない、とんだ愚か者だ」
 そう言うと、今度は「えっ?」という言葉とともに顔を上げ、シャロンがきょとんとする。それからすぐに男の勘違いに気がついた様子で、堪えきれずにくすくすと笑い出した。
「もう、全然泣いてませんからっ! ……そんなことだから、アンナ隊長に鍛錬バカって言われちゃうんですからね!」
 赤面していた顔が、みるみる笑顔に変わる。
 それはまるで――冷えた夜に暖かな陽光が射したかのような。男にとっては何よりも待ち焦がれた、まばゆいばかりの笑顔だった。
「でも、アンナ隊長の言った通りでした」
 わずかに呆然としている男の様子には気づかず、シャロンは優しい微笑みをたたえて続ける。
「さっき、『あの鍛錬バカが、そんな小難しいこと気にしてるわけないわよ。今まで通り、何も変わらず接したらいいのよ。そうすれば向こうだって今まで通り接してくるんだから』って言われたんです。アンナ隊長は正しかったです」
 アルフォンスが男に話を持ちかけてくれたのと同様に、アンナもシャロンと話をしたということなのだろう。彼としては、その言い草にやや複雑な気持ちが浮かぶのは否めなかったが、その内容までは否定できない。
「ほんとに……何も変わらなくてよかったです。無事で、こうやって今まで通りお話しが、でき、て――」
 シャロンが言葉に詰まったかと思うと、それまで普通に話していた彼女の目に涙が溜まっていく。
「あ、あれ……? わたし……すみません、泣く、つもりなんて……」
 幾度めかのまばたきで、翡翠色の瞳から大粒の雫がこぼれ落ちた。涙は落ちたそばから湧いてくるようで、彼女自身も戸惑いを孕んだ様子で、頬を確かめるようにしながら指先で拭う。
 男は、ころころと変わる表情を見ながら、「……本当に。シャロンが無事でよかった」と、本心から呟いた。
 泣いたり笑ったりする姿を見ることができるのは、あのときこの手で彼女を守ることができたからこそだ。そしてそれは、日々の修行の賜物だ。確かに自分は鍛錬バカではあるが、その点では胸を張れる。
「違います、っ……う……ううっ……うわあん……!」
 ただ、朴念仁であることには変わりない。心から実感を込めた言葉が無自覚にも相手の涙の堰を切らせてしまったようで、シャロンはわっと本格的に泣き出してしまった。
「わああんっ、わた、わたしじゃなくて、あなた、が……ぶじっ……無事で、よかったですっ、ほんとにっ!」
 そこまでなんとか言い切ったシャロンは、事もあろうに男の胸にすがりついて大声を上げて泣きじゃくった。
 その行動は、頭を殴られたとも雷を打たれたとも言えるような衝撃を男にもたらした。ある意味、エンブラ兵に腹部を刺されたときよりも強力な衝撃に、男は完全に全身を硬直させる。
 号泣するシャロンを慰めてやったり、大丈夫だと安心させてやったり、紳士のように彼女から体を離してやったり、何かせねばという気持ちだけはあるのだが、男にはこの状況を打破する術を持ち得ないのだ。両手を宙に浮かせてはみたものの、それでシャロンの体に触れるなどと考えただけでも、口から火を吹けそうなほど顔が火照った。
 だが、それでも。ぐすぐすと胸に顔を埋めて泣くシャロンの金色の髪を見ていると、不思議と満たされたような気持ちが腹の底から浮かび上がってくる。
 驚いたり、泣いたり、笑ったり。今宵だけでも、男の心にぽっかりと空いていた一ヶ月間の空白を埋めるほどのたくさんの顔が見られた。明日からもきっと、彼女の豊かな表情を見ることができるのだろう。それはとても、とても幸福なことだった。
 ただ、男はまだ知らない。今、胸にある幸せなぬくもりが何であるかを。
 この底なしの野暮天が、恋や愛という概念を知るまでには――まだまだ時間がかかりそうだ。

一陽来復 :2017/05/28
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