エリーシャは湖上に浮いた手漕ぎの小舟の上で、青空に向かって大きく両腕を突き出すと、気持ちよさそうな声を出しながら伸びをした。
だが、気持ちがいいのは当人だけである。背中合わせに座るヤム・クーは、エリーシャにしっかりと寄りかかられた結果、湖面に映る空と鳥影しか見えていない。伸びをする彼女の体重を文字通り背負って、はあ、とため息をついた。
「……重いな」
「それは竿のこと? それとも私?」
ため息だけのつもりが、どうやら本音も一緒にこぼれてしまったらしい。斜め後ろから向けられるやや冷えた眼差しを無視して、竿を持った手首をくいくいと動かして見せる。
「もちろん竿ですよ、竿。魚でもかかったかな」
ふうん、と鼻を鳴らしながら、エリーシャが身体の向きを返す。ヤム・クーの両肩に手を置き、竿先を品定めするように眺めた。
「そう? 私からはかかったように見えないけど」
「こう寄りかかられてちゃ、食いついた魚もバラしちまいますよ」
ややあって再び向けられた彼女の視線は、やはり冷たい。
実際のところ釣り竿から伸びた針に当たりなどなく、デュナン湖の底で静かに沈んでいるのだが、ヤム・クーはどこ吹く風といった素振りで肩をすくめる。そこへ打てば響くがごとく、「そこは漁師の腕次第なんじゃない? 毎日釣りしてる人が、これくらいでバラしたりしないわよ」と。釣りのど素人エリーシャはまったくもって無責任に、しかし見事なまでの正論を返したのだった。
「連れてくるんじゃなかったな……」
「なぁにー? 何か言った?」
魚のかかっていない竿に興味はないとばかり、エリーシャは既に今いた場所から離れて船尾で水面を叩いて遊んでいる。ため息混じりの愚痴は、そのぱしゃぱしゃという水音に阻まれたのだろう。こちらを振り返りもせずに問いかけてくる様子に、再びヤム・クーは肩をすくめた。
「聞こえてないなら助かりまさぁ」
釣りに誘ったのは確かに自分で、彼女の側にいられること自体は幸せなことだ。だが、連れてきた理由を思えばあまり手放しで喜べはせず、だからといって渋々連れてきたとも思われたくない。しかし――一緒にいられて嬉しいという思いを、彼女に悟られるわけにもいかない。
堂々巡りになる思考を止めるように吐き出した息は、青息吐息。これまで吐いてきたいくつものため息と違って、ひどく重みのあるものだった。
ヤム・クーには、義兄弟の盃を交わした男がいる。
彼と同じく赤月帝国の出で、“命知らずのタイ・ホー”という二つ名を持つ漁師だ。
このタイ・ホーがまた呆れるほどの博打好きで、自分の運が向いていると見れば、どんな時化だろうが漁にくり出す。そして獲れた量に関わらず、酒を飲んではちんちろりんなどの賭け事に興じるのが日課だった。加えて言うと、博打によって当たり前のように発生する借金の取り立てから彼を匿うのは、弟分であるヤム・クーの日課である。
三年前のある日、二人がいたカクという町へやってきた解放軍の若きリーダーから、トラン湖の廃城まで船を出してほしいと頼まれた。
タイ・ホーという男は、決して戦争に興味があるわけでもなければ、どちらの勢力にも一切の思い入れなどもなかった。ただ、深い霧に覆われ、恐ろしい化け物が住み着いている城へ行こうという、いっそ無鉄砲とも言える心意気が彼の胸を打った。また何よりも大事だったのは、その少年が博打で自身を負かしたいう事実だ。結果、強運を持った少年に賭ける形で――ヤム・クーはそれに付き合う形で――彼らは赤月帝国軍と解放軍の戦争へ身を投じることとなった。
非戦闘員として解放軍に属していたエリーシャとの出会いは、そのときのことだった。
宵越しの金を持たず、一徹者で人情家であるタイ・ホーの周囲には、漁師仲間を始め、知らぬうちに人が集まってくる。そして竹を割ったような性格が気性の荒い男たちに受けがよく、漁師小屋に招かれることの多かったエリーシャもまた、そのうちの一人となっていった。それから少し経つと、夜毎の酒盛りに面倒見の良いその存在は欠かせなくなり、気がつけばヤム・クーとタイ・ホーのそばには、いつも彼女の姿があった。
最前線へと出ていきたがる性分、酒盛りでの飲みすぎ、賭けでの大損。色々な意味で目の離せないタイ・ホーのことを、エリーシャはよく世話を焼いていた。彼とともに笑い、騒ぎ、彼がいき過ぎそうなときにはうまくたしなめる。それを自然と半歩下がって行う様は、まるで出来のいいかみさんのようだと言われるほどだった。
ヤム・クーはタイ・ホーの弟分であるからして、エリーシャと同じく半歩下がった立ち位置にいた。ゆえに兄貴分のことはもちろん、そんな彼女の横顔もずっと見つめ続けてきたのだ。だから――タイ・ホーへと向けられるエリーシャの眼差しの中に、仲間に抱くもの以上の感情が秘められていることにも、すぐに気がついた。
とある晩、酒の勢いで自分が訊いたのか、それとも、エリーシャが思い余って話し始めたのか。トラン湖畔の解放軍本拠地にある漁師小屋で行われる毎夜恒例の酒盛りの中、偶然二人きりになった彼女から、タイ・ホーへの想いを打ち明けられた。
それはまるで、雫が一粒ずつこぼれ落ちるように。
いつもの気風のよさをどこかに置き忘れて、タイ・ホーへの恋心をぽつりぽつりと口にする俯いたエリーシャの、その、いじらしく恥じらう不器用な横顔に、ヤム・クーはまるで頭を殴られたような衝撃を受けた。
彼女の想いには気がついていたつもりだった。早くから察していたはずだった。だが、それを本人の口から聞かされた途端、飲んでいた酒が一気に熱いもののように感じ、そして、一気にまずくなった。
この瞬間、皮肉にもヤム・クーはエリーシャへの想いを自覚し、同時に、その恋を失ってしまった。
そして更に皮肉なことに、決して告げることのできないその想いに気付いたタイ・ホーが、恋の成就を応援することをヤム・クーへと約束したのだった。――エリーシャから向けられる気持ちや、タイ・ホー自身が彼の恋敵であることも知らぬまま。ただ盃を分けた弟分の幸せを心から願って。
青天の下に広がる現在のデュナン湖は、町や本拠地の賑わいも戦争の脅威も届いてこない。まして魚が釣れているわけでもないとなれば、そこにあるのはただの静けさだった。
ぷかぷかと湖に浮かぶ穏やかそのものの一艇の小舟に、はあ、というため息が響いた。今度のそれはヤム・クーのものではなく、水で遊ぶのに飽きてしまったエリーシャのものだ。あまり水面を叩かれると魚が警戒してしまうので、飽きてくれたこと自体はほっとしているが、それと引き換えに、再び背中には彼女がもたれかかってきている。おかげで、嘆息の重さも背中に直接伝わってくるという具合だ。
ヤム・クーはあくまでも釣り糸と湖面の交わる点を見ながら、後ろのエリーシャへと声をかけた。
「またアニキのことで悩んでるんですか?」
三年前のあの晩を機に、ヤム・クーはエリーシャから恋愛相談のようなものを聞かされ続けている。実際のところ、恋愛相談とは名ばかりの、タイ・ホーったらああだこうだという愚痴や、今日は一緒に食事をしただとかいうのろけばかりなのだが。
本音を言えば、自分の想いに気付かない彼女への苛立ちや、彼女に愛されるタイ・ホーへの嫉妬を感じないわけではない。彼女の思いに報いてやってほしいと願うことすらもある。だが、結局は会話の機会を持てるということや、話を聞いてほしいとエリーシャに求められているということが幸せで、ヤム・クーは自らこうしていばらの道へ踏み込むのだった。
「そんなんじゃないわ。そもそも、相手にもされてないもの。タイ・ホーは美人が好きだから、私みたいなどこにでもいるような女には見向きもしないわ」
憂いを帯びた声が、ヤム・クーの胸をちくりと刺す。
「……まあ否定はできないですがね。でもアニキ、今まで美人に本気になることは一度もなかったですぜ?」
相手にされていないというのは事実だが、それはひとえにタイ・ホーが弟分である自身に気を遣っているだけで、エリーシャに問題があるわけではない。強いて言えば、やや恋愛下手なだけだ。
エリーシャがもう少し色恋に関して器用であったなら、あるいは――自分さえ諦めてしまえば、彼女は幸せになれるのだろうか。
「だからって私に本気になってくれるわけでもないわ。そうなってくれたら、どんなに良いか……。それに、そもそも女として私を見てくれているかが危ういわ」
何度もよぎった考えはヤム・クーの喉をわずかに詰まらせたが、想い人は気づかなかったようだ。背中を預けたまま、遠い空をぼんやりと見ながら言う。
エリーシャが見ているのは、東の方角だった。
このデュナン湖の南にあるノースウィンドウ城を本拠地とした同盟軍は、ジョウストン都市同盟の一つであるトゥーリバー市からの使者フィッチャーによる要請で、リーダー自ら同市へと赴くこととなった。しかし、トゥーリバーへ向かうには湖を渡りレイクウェストへ行かなくてはならない。つまり、船乗りが必要になる、ということだ。
そこで白羽の矢が立ったのが、クスクスの街にいたタイ・ホーだった。
解放戦争後もずっとタイ・ホーとともにいたヤム・クーはもちろん、解放戦争後に一旦別々の道を歩むことになったものの、少し前に偶然再会したエリーシャの二人も、当然芋づる式に同盟軍として参加することとなった。だが、タイ・ホーは――完全によかれと思って――非戦闘員であるエリーシャをヤム・クーに任せて、自分ひとりで船に乗って行ってしまったのだ。
当然、エリーシャはせっかく再会したばかりのタイ・ホーとすぐに離れることとなり、挙句またしても危険な戦線に立つことを心配することとなってしまった。その結果、まだ整備されきっていない本拠地を落ち着かない様子でさまよい続けていたところを見かねて、ヤム・クーが気晴らしに釣りへと誘った、というのが現状であった。
「そんなひねくれないでくだせぇ。これからとびきりの魚釣り上げますから、その魚でも料理して持っていったらどうです? アニキ、魚料理に目がないですし」
「そうしたいのは山々だけど、私が料理苦手なこと知ってるでしょ。前に魚焦がしたじゃない」
エリーシャの声に、拗ねた響きが混じる。
事あるごとにレイクウェストの方角、タイ・ホーが向かった方面を見ているのをなんとか励まそうとしたのだが、これでは逆効果だ。
「……ああ、そういえばそうでしたね。あれは流石に酷かったな」
言いながら苦い記憶を思い出して、ヤム・クーはげんなりした。長く伸ばした前髪で目元が隠れていることと、エリーシャと背中合わせだったことが幸いするほど、露骨に顔をしかめる。
あの黒焦げの魚は、実に酷かった。同盟軍リーダーの姉ナナミが際限のない味オンチだとすれば、エリーシャは究極の不器用と言える。
大抵のことをそつなくこなす彼女が、なぜか恋愛と料理だけは超がつくほどの不器用なのだった。
「難しいのよ、加減が……。でもあんな真っ黒な魚でも、ヤム・クーは全部食べてくれたわよね。あの時は嬉しかった」
「魚が勿体ないですからね。あっしは食い物を粗末にできない性質なんでさぁ」
くだんの魚は、加減が難しいだとか惚れた女が作った料理なら何でも食べられるだとか、そんな次元の話ではなく、誰かが食べてやらねば報われぬほどの焦げ方だった。ヤム・クーはあのときばかりはただただ魚が気の毒で、よく焼けた木炭を食べているような錯覚に陥りながら弔ってやったのだ。
「ふぅん。なら今度から料理失敗したら全部ヤム・クーに食べて貰おうかしら。私も思う存分、料理の練習ができるし」
ヤム・クーの無謀とも言える心意気を、タイ・ホーたちを始めとした仲間たちが皆一様に褒めそやした。エリーシャも、申し訳なさそうにしていながらも心底嬉しそうで、決して悪い気はしなかったのは事実だった――が。
「……勘弁してくだせぇ」
それでも、何を食べても飲んでも鼻に焦げ臭さが残っていた数日間を思い出し、ヤム・クーは彼女の申し出を丁重かつ真剣に断った。
釣り場を変えるべく小舟を進めていた櫂を置き、仕掛けを作り直す。しばらく続いた柔らかな沈黙の後、エリーシャは手際よく作業を進めるヤム・クーの指先を見つめながら問いかけた。
「ねえ、いつも思ってたんだけど、釣りって楽しいの?」
「やりますか?」
エリーシャが釣りへの感心が薄いことは、以前から知っている。釣った魚を食べることは好きだが釣りそのものに興味はなく、あるとすればタイ・ホーが生業としているものに対する想いだけだろう。それでもヤム・クーは、万が一彼女がやってみたいと言い出したときのために二人分の釣り竿を用意していた。始めにも同じ質問をして断られたのだが、ついにやってみる気にでもなったのだろうかと竿を指して見せる。
「ううん、無理よ。向いてないわ。私、糸が引くまで待ってられないもの」
最初に訊いたときと同じように首を横に振りながら、エリーシャは肩をすくめ、自嘲気味に笑った。
「せっかちの方が釣りは向いてるんですぜ。ぼうっとしてちゃあ、魚に逃げられちまいますからね」
「そうなの?」
「ええ、きっと向いてますぜ」
餌を付け替えたり、釣り針を垂らす深さの調整をしたり、釣る場所を変えたりと、のんびりしているように見えて、魚釣りというのはこまめな工夫が必要だ。気が短く、まめで、大抵のことを器用にこなすエリーシャは魚釣り向きと言えよう。
そのくせ魚は焦げるまで待つし、振り向いてもくれない博打好きの男を長年密かに慕い続けているのだから不思議な性分だ、などと内心で密かに考えていると、エリーシャがヤム・クーの横顔を覗き込んだ。
「ヤム・クーもせっかちなの? そうは見えないけど」
「どうですかね。釣りに限っていえば、そうかもしれないです」
ヤム・クーは、漁師の中では比較的穏やかな部類に入る。海の男特有の荒々しさがないわけではないが、タイ・ホーを兄貴と敬い、慕っている間に――その中で多大な気苦労を負ううちに――ずいぶんと削ぎ落とされていった。
一時期よりおおらかになったとは言え、漁の腕は健在だ。せっかちとは言わぬまでも、気長に釣り糸を垂らしているだけの男ではない。
「他は?」
ただ、その気の短さが適用されるのは、現在は魚釣りだけのこと。今の彼は、まったくもって気配り上手で、苦労性で、ゆったりとした男だった。
「見ての通りでさぁ」
もしも自分がせっかちなら――これほど近くにいる彼女に手を出さずにいるはずがないと言うのに。
「ふふ、なんだか安心した」
何も知らないエリーシャは、心底から嬉しそうに、ヤム・クーの横顔を見つめたまま微笑んだ。
太陽は空の頂から少しずつ下り始め、いささか過ごしやすくなった。相変わらず静謐を保つ湖の上には、ひどくささやかなそよ風が吹いている。船尾近くに膝を抱えて座ったエリーシャは、風を感じるようにまぶたを閉じた。
「こうしてヤム・クーのそばで波に揺られて、空を見上げて、風の音を聞いていると、戦争の喧騒を忘れられてほっとするわ……。すごく心地いい」
船首の方で釣り糸を垂らしていたヤム・クーは、風に揺れる長い前髪の隙間からエリーシャの優しい表情を覗き見る。
「あっしより、アニキのそばの方がほっとするんじゃないですか?」
「……タイ・ホーのそばは、いつも心臓が飛び出しそうで苦しいわ。全然、落ち着かない」
膝を抱えている片方の手で、恋の苦しさに耐えるように額を押さえると、穏やかだった表情は自嘲めいたものに変わった。
たとえ苦しくとも、たとえそばにいて落ち着かなくとも、エリーシャはタイ・ホーに恋い焦がれる。
「本当に惚れてんですね、アニキに」
わかっていて確かめると、彼女はわずかな沈黙の後、やはり東の空へ顔を向けて答えた。
「……うん、好き。大好き」
耐え切れなくなった想いを乗せてつぶやくエリーシャの横顔を見て、見つめて――じっとしばらく見つめた後で、ヤム・クーはそっと湖へ目を戻す。
鏡のような水面を眺めながら思い出すのは、エリーシャへの想いを自覚し、加速させたあの晩のことだ。
そして今、改めて、痛いほどわかってしまった。
ほのかに赤くなった頬、切なく揺れる濡れた瞳、わずかに微笑んだ唇、そこからこぼれ落ちる愛の言葉――。
「この顔に弱いんだ」
決して自分には向けられることのない、この不器用でいじらしい横顔を愛してしまったのだ。
「ん?」
言葉を聞き逃したエリーシャが正面を向いた。ヤム・クーはゆるく首を振ってから、自分の背中を指でとんとんと叩く。
「いえ……。まあ、あっしのそばはいつでも空いてるんで、いつでも寄りかかりに来てくだせぇ」
彼女がそうであるように、たとえ苦しくとも、たとえ振り向いてもらえなくとも、ヤム・クーはエリーシャに恋い焦がれる。
「うん、ありがとう。遠慮なくそうさせて貰うわ。……でも、また重いとか言わないでね?」
エリーシャは笑いながら船首まで来て、背中を寄せる。遠慮のないもたれ方に、ヤム・クーの口からは本日何度目かのため息がこぼれそうになるが、今度ばかりはぐっと堪えた。
いつか――この背中合わせの均衡が崩れてしまう瞬間までは、その横顔を密やかに愛することを許してもらおう。
少し顔を上げ、真っ青な空を仰ぎ見る。二人の頭がこつん、と軽くぶつかり合うと、後ろからはやけに幸せそうな笑い声が聞こえてきた。ヤム・クーもまた、隠れた目元をやんわりと和らげた。
報われない恋をふたつ乗せて、小舟は浮かぶ。
魚が釣れる気配は、今のところなさそうだ。