月を司る、その名は


 シャラリ、と。音の軽快さとは裏腹に、ずしりとした重みをもった鎖が目前を這う。鈍い色のそれに視線を伝わせて辿り着いた先には、弓張り月を背負って優しく微笑む悪魔がいた。見た目は人そのもののその男を、なぜ悪魔だと思ったのかはわからない。ただ、月の光を受けたダリアのような色の髪も、朝と夕をそれぞれ宿したような色の瞳も、夜のような深紫色の服をまとう出で立ちも、人の心を惑わせる端整な顔も、その何もかもに背筋がぞっと凍った。だから何の疑いもなく、彼が美しい悪魔なのだと思ったのだ。
 不意に、男の仕立ての良さそうな宵闇色の靴が地面を叩く。こちらに、向かってくる。人好きする笑顔は、なのに、やはり心を暗くかき乱し、私は思わず後退りをした。すると、「へえ、逃げようとするんや」という感心したらしき声が月夜を嘗めていく。そして、けどなぁ、という明るく軽い言葉が聞こえるやいなや、鎖は明らかな意思を持って私の片脚に絡みついた。
「俺は捕まえよう思たもんに逃げられんのは、我慢ならんのや」
 その声はひどく低く、重く、シャラリという鎖の音色とともに闇と心を震わせる。動きを封じられた私が最後に見たのは、やはり月を背にした美しい悪魔の笑顔だった。

(2018/10/23)


ムーンナイト・ハロウィン


 磨き切った見目形とは、服装が変わったところでその魅力が失われるものではないのだろう。おそらく『本職のそれ』よりもはるかに洗練された身のこなしで歩いてきたカスピエルは、同じく仮装を楽しむ町娘に声をかけた。
「きゃっ、海賊……?!」
「ああ、驚かせてしもたな」
 娘の反応に気をよくして、海賊に扮したカスピエルが仮装に似合わぬとろけるような微笑を浮かべる。
「あなたの格好もハロウィンの仮装なんですね。あんまり似合ってたものだから、てっきり本物なのかと……」
 自分のそそっかしさを笑ったのか、娘はくすくすと口元に手を添えて笑う。
「――もし」
 カスピエルは、ふと、その手をやんわりと掴んだ。
「もしも俺が本物の海賊やとしたら、今頃あんたを奪い去ってるわ」
 黒い眼帯で隠していない瞳がゆるりと細められる。嘘とも真実ともつかぬその眼差しは、ただの町娘には抗えぬ妖しい輝きが宿っていた。

(2018/10/31)


うつつにも夢む


 吸血鬼は夜に牙を剥く。
 日中は無害な顔で微笑んでいた彼は、夜の帳に潜んで妖艶に微笑んだ。
「お嬢さん、こんばんは。イタズラしに来たで」
 ふふ、と笑いを孕んだ吐息が闇に溶けていく。
 一歩、二歩。靴の先はこちらに向いている。昼間はあれほど紳士的に映っていた吸血鬼の仮装が、今は無性に怖さを感じさせた。少なくとも、イタズラ、という響きが楽しい意味には思えない程度の恐ろしさがあった。
「ソロモンの頼みやったからなあ。昼間はしおらしく街のガキどもにお菓子配ったりしたったけど、夜は大人の時間やろ?」
 どうして、という疑問が顔に出ていたのか、問いかけるよりも先に答えが返ってきた。
 そう。この人、カスピエルさんは、旅のご一行のうちの一人として街へ訪れた。リーダーらしきソロモンさんがとても善良な方で、皆さん揃って収穫祭に興じる子どもたちに親切にしてくれたのだった。――だから、今、目の前にいるのが昼の彼と同じ人だとは、到底思えなかった。
 私の戸惑いなど気にも留めずに彼が、バサ、と厚手のマントを翻すと、周囲のジャック・オー・ランタンの灯りが揺れる。
 足元からゆらゆらと照らされた彼の顔は、美しかった。目が離せないほど、美しかった。
「声も出えへんか? でもまだ驚くのは早いで、楽しいイタズラはこれからや」
 まだ、昼間の優しい微笑みが脳裏にこびりついている。けれど、もう逃れられないほどの距離で見た眼差しは、おへその下がぞわりとするほど蠱惑的で――私は、尖った付け爪の着いた指が伸びてくるのを、ただ目を強くつぶって待つことしかできなかった。
 腕に爪がゆるく食い込む。胸の前に、男の人の体温を感じる。きっと、私が閉ざした世界の向こう側で、吸血鬼は鋭い牙を剥いているのだろう。
「この血は、どんな味がするんやろうなあ……」
 首筋に感じた熱い息遣いに、全身が震えた。それが恐怖か悦びだったのか――私自身にも、もうわからない。

(2018/10/31)


ハンティング・タイム


 テーブルを挟んで目の前に立ったのは、身なりのいい男だった。
「ここ、相席かまわん?」
 柔らかな声が響けば、腰まである彼の髪がふわりと揺れる。菫色と撫子色の混ざるそれは、店の灯りを受けて淡く輝いた。
「ここでよければ、どうぞ」
 飲食店にとってはピークに差しかかろうという時間帯。まだ全部の席が埋まっているわけではなかったが、それなりに混み始めた店で、一人客同士、テーブルをともにしようという配慮に好感を持った。前の席を手で示して微笑むと、男は整った顔をふわりと崩した。
「ありがとうな。ほな、失礼して」
 椅子を引き、座る。男の所作はどれもが上品ではないが洗練されている。
 身にまとう上下揃いのスーツは、黄昏時の西の空のような深い色をしている。仕立てがいいことも、彼が丁寧にそれを扱っているであろうことも一目見てわかる美しいものだ。
 装い、着こなし、仕草、表情――どこをとっても瀟洒な男は、知らず目を惹きつけた。
「ふふ、そない見られると緊張するわ」
「あ……ごめんなさい、そういうつもりじゃ……!」
 見つめていたことをやんわりと指摘されて、火がついたように顔が熱くなった。自分がそこまで目で追ってしまっていたことも、男がそれに気づいていたことも気恥ずかしい。
「ええよ、あんたみたいな綺麗な人からの熱い視線を受けて、悪い気ィする男なんておらへん」
 歯の浮くような言葉ではあったが、男は本当に気を悪くした風ではなく微笑んだ。
「ところで、それは何を飲んでるん?」
 指差された場所へ視線を落とす。
「これは……コーヒーを」
 やや口ごもって答える。食後に運ばれてきたものだが、軽妙洒脱なこの男の前ではひどく凡俗なように思えて、いささか気後れした。
 ふうん、と鼻を鳴らす音が聞こえた。彼ならもっと洒落たものを頼むのだろう。
「それなら、おれも――これと、おんなじものを」
 視線を落としたままでいると、そんな声が聞こえてはっと顔を上げる。男はどうやら同じコーヒーを注文したらしかった。
「あんたと同じ時間、同じ味を共有したい思てなあ」
 間もなく運ばれてきたコーヒーに角砂糖を入れ、甘い言葉をささやく。
「せっかくの偶然、運命にせなもったいないやろ?」
 ミルクピッチャーからミルクがとろりと注がれ、コーヒーに白い渦ができていく。くるくると回したスプーンは、渦を一層細かく乱した。
「なあ……この出会い、運命やったと思わへん?」
 こちらをまっすぐに見つめる瞳は、それぞれ異なる二色の月。まるでコーヒーの渦を映した眼差しが、心を吸い寄せる。その引力に抗おうなど、浮かびもしない。気がつけば、テーブルに乗せている男の手に自分のそれを重ね、ただうなずいていた。

(2018/12/04)

月夜と戯れる四篇
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