軒先に、一つの気配。
 この骨董品店の若旦那は、とりわけ人の気配を感じることに長けている。
 元々、この店を訪れる者は多くはない。江戸の頃より空気のようにそこに在り、『如月骨董品店』と書かれた趣きある暖簾をくぐるのは、ここを必要とする客だけだ。それゆえ――まして、与えられた使命から聡くならざるを得なかった彼は、来客に対して非常に機敏な反応を見せる。
 もっともここ最近は、店を潤わす源である友人や、その周囲のひやかし客によって、呆れるくらいの賑やかさに溢れているのだが。
 ともかくとて、彼は表に立った来訪者がよく見知った気配だと感じていながら、素知らぬふりをしたまま店主然とした顔で戸を開けた。
「やあ、いらっしゃい」
 開けた隙間から、夏の名残の日差しと熱が入り込む。
 まぶしさと、玄関前に立っていた珍しい人物を目の当たりにして、薄く両眼を細めた後、歓迎の挨拶を続ける。
「珍しいね、今日は一人かい?」
 さも来客者が一人だと気付いていなかったかのような顔で問う。
 彼女――黒川は、店へ入ることに逡巡していたのだろう。狙ったように開いた戸に驚き、一歩後退したところだった。だが、顔を覗かせたのが骨董品店の店主、如月翡翠だと知って、安堵にも似た瞳でほの苦く微笑む。
「……うん。ちょっと、見たいものがあって」
「そうか、遠慮せずに入るといい。よければ品物の説明もするから、いつでも言ってくれ」
 氷の美貌と名高い店主は、何食わぬ顔で客を中へと迎え入れる。
 常であれば優しい空気をまとう彼女が、今日に限っては、その背にわずかな陰影を帯びていることにも、ひたすらに気付かぬ振りを貫き通す。
「ありがと、如月くん」
 言いながら暖簾をくぐった彼女は、小さく息をつく。
 一人、この店へ訪れていることを知られたくないのか。少なくとも他の仲間には、見咎められたくなかったのかもしれない。誰もいないことを確認するように店内を見渡し、再び安堵を得たようだった。
「外は暑かっただろう。冷たい飲み物でも出そうか」
 店へと戻る間際、軽く外界を一瞥する。
 高く澄み渡る空にはちぎれた雲が点在し、夕立の心配もないように見える。昼間に行った打ち水も綺麗に乾き、地面は元来の色を取り戻していた。
「本当に……暑いな、今日も」
 誰へ向けるでもない言葉は、蝉の声が掻き消した。



 品物へと伸ばされる、細い指先。寸前になると、無断で触れることをためらい、動きが止まる。そして店主へと向けた視線が、触っても良いかと可否を問う。頷くだけの許可が得られると、指先はまた、腫れ物に触るような仕草でそっと触れるべき場所を探す。そうしてから手厚く包むように持ち上げる。
 如月は、ただ黙って、その所作を眺めていた。監視の目ではなく、むしろ親しみを多く含んだ目である。
 祖父から受け継いだこの店には、骨董品店というだけあって価値のある品々が多くある。それを深く理解しているがゆえ――なおかつ、やや融通の利かぬ若い店主の性分や、店そのものを大事に思う気持ちを存分に汲んだ上で、彼女は銘々の品を柔らかく扱っていた。
 その一連の仕草は、如月にとって非常に好感の持てる姿だった。それゆえ、意識せずとも視線が彼女の指を追いかけた。
 だから、なのだろう。店内を無作為に回るように見せていながら、黒川が選ぶ品のほとんどが、武具であることに気が付いたのは。
 彼女は、非力だ。
 そう評せば失礼に値するかもしれなかったが、そもそもの《力》の種類が異なる。彼女の《それ》は補助の役割を担う。決して、直接鬼と戦うためのものではない。
 ならば何故、武具を見ているのか。その答えを導き出すのは、決して難しいことではなかった。
 少し遠い蝉時雨に紛れて、如月は細く長い溜息を吐き出す。
 この夏の初めに真神学園の生徒たちと出会ってから、何もかもが変わってしまったように思う。取り巻く環境、日々の生活、如月翡翠という人間の在り方。
 先祖より課せられてきた使命を全うすることだけが、自らにとっての全てだった。
 彼女が何を欲そうとも、また、何故欲そうとするのかなどと、口出しをするつもりはない。例え優しく辿っていく指先が刃を求めようとも、ましてやこの店まで背負ってきた影の理由など、聞いてやるつもりなどは毛頭ない。
 他の誰も、何も関係ない。自らに与えられた宿命を全うするのみでいい。
 ――これまでの己ならば、間違いなくそうだった。
「選ぶのなら、もっと軽い得物がいい。そうだな、せめて小脇差くらいかな」
 中脇差を手にした姿を見て、如月はすかさず言う。
 これまで黙していた男の介入は、黒川にとって存外なことだったのだろう。上げかけた悲鳴を押さえるように息を呑んだ。そうしてから、持っていた得物を慌てて棚の上へ戻す。
「体力の乏しい女性が振り回すなら、やはり軽いものでないとね」
 商売人よろしく柔和な作り笑顔で、身近な引き戸を開ける店主を見る彼女の目は、ひどく困惑している。
「妥当なものは、小刀か」
 女性にも持ちやすい小刀を出し、衣擦れの音一つ発さずに動くと、客人の前へと立った。取り出した得物を静かに握らせてやり、その上からふわりと両の手で包み込む。
 傷ひとつない白い指先は、この店へ訪れた決意に似合わなくて、如月はかすかに苦い顔をした。
「慣れない刃を振りかざす、その入門としては打ってつけだろう」
 あくまで平静を保ってはいたが、咎める響きが声色に現れていた。幾分低くなった声色から耳を塞ぐように、彼女は顔を俯かせる。
 真面目な彼女のことだ。仲間とともに戦う意志を固めたのだろう。守られるだけではなく、せめて出来ることをしたいと思ったのだろう。
「如月くん、わたし、あのっ……」
「今のは、骨董品店店主としての忠告だ」
 手を柔らかく包み込んだまま言葉を遮ると、は顔を上げる。理解しかねた面持ちを浮かべ、如月の手と顔を、視線だけで幾度か往復させた。
 すぐに折れてしまいそうなか細い指は、慣れない刃を握り締め、小さく震えている。
「そして、仲間の一人として忠告させてもらおう。、君は武器を持つべき人ではないよ」
 青臭いと、分かっていた。
 夏を迎える前の己ならば、他人の心には決して立ち入らなかったであろう。他人の弱さも強さも、どうでもよかったのだ。
 そんな自分が、他人の心に、こうして自ら触れようとする。
 使命感だけでなく本心から、この地を守りたい――仲間を守りたいと強く感じるようになっていた。
 店主としての損得を捨て、一個人として、仲間を想う一人の男として、その決意を諌め、そして、その優しさを赦してやりたかった。
「でも、わたしも戦わなきゃ……」
「君に誰かの命を奪う覚悟が? その命が抱えていた未来を奪うだけの覚悟が、君にあるかい?」
 口ごもった呟きを責めないよう、如月は努めて穏やかに問いかける。「それは」と、いささか迷った声が聞こえたが、黙殺した。
「無いわけではないのだろうね。こうして僕の店に一人で来るだけの覚悟があるのだから。けれど、君が前線に立ち、傷付き、鬼を殺める姿を、龍麻や僕たちが温かく見守るとでも?」
 言葉の一つ一つを告げる度、の目尻に、じわり、と涙が浮かび上がってきている。
 本当は戦うことが怖かったのだろうか。戦う覚悟を問われて自信を失ったのか。自身の無力さを痛感でもしているのか、あるいは、誰かに止めてほしかったのか。
 色々と可能性を考えてはみたが、如月には結局その涙の意味は分からなかった。
 ただ。ただ、純粋に美しいと思った。
 そして、この涙は、いたずらに流させるべきではないものだ、とも。
「君は、血で穢れるべきではないよ。血生臭いことは、僕たちが引き受ける。だから、
 自分を責めなくていい。傷付かなくていい。泣かなくていい――伝えたいことが多すぎて、言葉が喉で詰まった。
 涙の粒が大きくなっていく様を見届けてから、控えめに指先を撫でる。
 この優しい指が、この人が、血に濡れるのは恐ろしい。
「僕は……君に、綺麗なままでいてほしい」
 告げた後、ついに雫が瞳からこぼれ落ちた。
 もう何も言わずに両手を解放してやると、指先が、涙を、ひとつ、ふたつと拭っていく。
 如月はその様を眺めながら、蝉の声が聞こえなくなったことに気がつく。訪れた夕暮れの早さに、ぼんやりと夏の終わりを感じていた。

晩夏 :2013/02
back page