新世界の海は、いつになく穏やかな闇を水平線へ伸ばしている。
 不慮の戦闘に見舞われた軍艦は、夜の帳が下りきる前に近くの島へ着岸し、大方の設備点検を終えた。明朝、日が昇れば再出航する予定をしており、目下海兵たちは見張り等を除き、思い思いの時間を過ごしているはずだ。しかし、昼の戦闘が尾を引いているのだろう。ならず者だらけの船上は、今夜に限ってはずいぶんと静かだった。
 艦を率いるスモーカーは更に夜が深まるのを待ってから、あまり音を立てずに外へ出た。目的地へ向かう足取りは、急いているというよりも焦っていると称するに近い。夜陰に吐き出した葉巻の煙が、素早く後ろへ流れていく。
 昼間の戦闘で、海賊船から放たれた妙なガスを吸ったのは非戦闘員の数名だった。医療チームの見解によれば、神経ガスだということだったが、海上を漂っていた霧と何らかの反応でも起きて成分が中和されたのか、幸いなことに被害は出なかった。だが、その場にいた自身の恋人が、咄嗟に周囲の海兵をかばったがゆえに、とりわけ深くガスを吸い込んだらしい。他の船員同様、一旦は問題なしと判断された彼女の様子が、時間の経過とともにおかしくなったのを、誰が見落とそうとも他でもないスモーカーの慧眼は見逃さなかった。
 一時間と少し前。就寝前の職務として日誌を持ってきた彼女の姿は、ひどく危うかった。
 他人が見れば熱があると判断されるだろう程度の異常は、しかし――何度となく夜を共にした自分には、シーツの上で喘ぐ姿と重なって見えたのだ。遅効性の催淫作用が出てきたと見て、間違いなかった。
 だが、日誌を受け取る際に問いかけた、大丈夫か、という言葉に、彼女はできる限りの平静を装って、はい、と答えた。そう答えたからこそ、本来ならばもっと早くに様子を見に行きたかった。だが、いくら白猟のスモーカーが日頃から横柄な態度を取っていようとも、弁えるべきものも一応は存在する。ゆえに夜更けを待ち、夜更けの中を急いだ。
 部屋に辿り着くやいなや、スモーカーは合鍵を使って無遠慮にドアを開ける。
 ノックをする、という概念はあまり持っていない。ノックこそしないが、後ろ手に閉めたドアにロックを施すだけの抜け目のなさは、あった。
「スモーカー……さん……」
 丸窓の外とほぼ変わらぬ暗さの室内、ベッドのある位置から聞こえた名前は、熱っぽくかすれている。
「……大丈夫じゃねェな、その様子じゃ」
「あ……いえ、そんなことは……今、何か飲み物でも――」
「いらねェよ」
 近くへと歩み寄せると、それに反応して上半身を起こし、ベッドを下りようとする。
 調子の悪い中でも出迎えようとする姿は健気ではあるが、今は必要のないものだ。スモーカーが制すると、彼女は素直に動きを止めた。
「そんなこたァいいから、寝てろ」
 ベッドに横になるように、言いながら、肩をそっと押した。断じてその気はなかったが――不用意に、身体に触れてしまった。
「ッ、……!」
 まるで電気でも通ったかのように、彼女の肩が一度跳ねた。
 当の本人が一番驚いたのだろう、戸惑いを大いにたたえた瞳が、暗がりの中でスモーカーの三白眼へと向けられる。
「あ……私っ……」
 何か言おうとして、彼女は何も言えずに黙り込む。その頬に手を伸ばせば、今度は肩が微かに震えた。
 刹那、乱れる吐息。指先から伝わる火照りと、汗ばんだ肌――。強い色香をまとった相手を前にして、我慢の必要がある関係ではない。口づけは、スモーカーが葉巻を口から外したのを合図に、吸い寄せられるように交わされた。
 口づけは次第に深くなり、同時に情欲を高めていく。
 手に持っていた葉巻は、手探りでベッドサイドの灰皿に押し付けた。羽織っていた『正義』のジャケットは器用に片腕ずつ脱ぎ捨て、煩わしげにベッドの外へ投げ飛ばした。
 上半身を裸にした男は、最後に両手で頬を挟み、口内の深いところを味わってから、ゆっくりと唇を放した。
 ごく近い距離で視線が絡み合う。
 彼女のまなじりには、今にも決壊しそうな理性と涙があった。
「……お前のしてほしいことを言ってみろ、おれが叶えてやる」
 今すぐに掻き抱いてしまいたいのを堪えて、あくまでも思いやりのふりで、問いかける。
「して、ほしい、こと……?」
 もしも例の妙なガスが致死性を有するものだったなら、今頃、彼女はここにはいない。他人を守って真っ先に死んでいただろう。その優しさが心地よくて愛した女であっても、その優しさゆえに自分を残して死ぬなどという身勝手を許した覚えはない。
 だから、思いやりの裏に、わずかばかりのわがままと相応の下心を込めた。
「私……私は……」
 ガスを言い訳にして構わない。自分に縋りついて、生の実感を自分から得て、本能で自分を求めてほしい。――そう、思っていたのだが。
「スモーカーさんに、抱き締めて、名前を、呼んでもらいたい……です」
 まばゆいほどに健気な願いが、鼓膜と胸を貫いた。
 スモーカーは煙の伴わない長い息を吐くと、黙って彼女を抱き寄せた。乱してしまった髪を耳にかけ、そこへ名前を囁き落とす。
「ん……、スモーカーさん……」
 少し熱を孕んだ吐息混じりで、くすぐったそうに、幸せそうに笑う。一度ちらりとスモーカーの顔を見上げ、おもむろに顔を胸へ寄せてから、片手をそっと心臓の上に置いた。鼓動を確認するようにして、手のひらが上下する。
「私……生きてて、よかったぁ……」
「……バカ野郎。おれを置いていくなんざ、どこへだろうと許さねェよ」
 生の実感を躊躇いもなく口にする彼女に心は満足して、ふ、と目を細める。しかし、男の悲しい性として、肉体の方はそうもいかない。
 胸にある手を取り、もう片方の手首も奪って、そのままベッドへと押し倒す。
 ガスの作用に侵されていないはずの自分の方が理性を失っているのは滑稽な話だが、そもそもなりふりを構わない性格だ。ならばいつも通り、横暴に、身勝手に、相手を愛してやればいい。それを、この健気で一途な恋人は迷いもなく受け止めるのだから。
「……あの、それと……」
 開き直ったスモーカーが鎖骨へ顔を沈めたとき、いつもより熱のこもる身体を、いつもよりも大きく震わせた彼女は――ひどく恥じらいながら、ともすれば波音にかき消されてしまいそうなほどの小さな声で、スモーカーの求めていた言葉を告げたのだった。
「私、……今夜は、」

今宵はいつにも増してあなたが欲しい :2019/09/28
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