whisky


 口づけは、ウイスキーの味と香りがした。
 あなたが――意外なほど優しく触れた唇は、温かく、濡れている。
 ウイスキーの通った食道が、肺が、ひどく焼けつくような熱を持つ。私の胸もまた、燃えるように熱くなっていく。
「クロコ、ダイル」
「――てめェは」
 強い酒に灼かれた喉から、かすれた声がこぼれる。その言葉の先も待ってはくれずに、独善的な海賊はただこう告げた。
「黙って、この船に乗れ」
 彼が手にしていたまだウイスキーの残ったグラスは、少し離れた夜の海に音を立てて捨てられた。その空いた右手が、私の熱い頬に置かれる。
 左頬の熱い手のひらひとつで、私は首を横に振って誘いを断ることもできなくなる。そして、もう一度近づいてくる唇を拒むことすら――

(2018/01/04)
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かなしい』


 長く続く糸雨は、世界から雨音以外の音を奪っていく。
 窓の外を眺めて女はつぶやいた。窓についた雨粒を顔面に映して、まるで泣いているような顔で、かなしい、と。
 その声は静けさの中でよく伝わり、部屋をともにしていた男は元より不機嫌な顔をさらに強めたが、高い自尊心ゆえに、何が、とは問わなかった。ただ、シーツ一枚巻きつけただけの頼りない肉体を見ているうちに、かつて気まぐれに伸ばした鉤爪が掴んだ、華奢な手首を思い出す。そのときから、視線も、唇も、肉体も、心も、命すらも全て、違うことなく女の全てが自分のものだった。出て行きたけりゃ好きにすればいいと突き放しても、その実、雛鳥が巣立ちを選べない――否、選ばないことを男は知っていた。
 だから、自分が知らない感情を吐き出した女にひどく不快感を覚えて、左腕の鉤爪がぎしりと軋んだ。
 無言でベッドから下りた男は、そのまま女の背後に立つ。細首を鉤爪が捕らえると、窓に映った女の顔は少し笑ったように見えた。

(2018/07/14)
いただいたお祝いのお話への返歌的に書かせてもらったものです
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アルカイック・スマイル


さらりと舞い上がった砂塵は、蜂の集団のように強い意志を持ってまたたく間に目前まで飛んできて、みるみるうちに人の輪郭を描いた。考えるよりも先に危機感を覚えて退こうとした肉体が、訳もわからないうちに自由を失う。はっと下を見ると、私の腰にはぎらついた鉤爪が食い込んでいた。痛い、と思ったのはそれを確認してからで、すぐさま前方へ視線を戻したときには既に首を右手で囚われていた。喉の真ん中が押し潰され、呼吸も咳き込むことも許されずに苦しさゆえの涙が目尻に溜まっていく。けれど、窒息よりも恐ろしいと感じたのは、濡れた視界に映ったその男の眼差しだった。この男なら、確かに、目だけで人をくびり殺すくらいできるのかもしれない、なんて思うほどの迫力があって、それが自分に向けられているという現実がひどく怖かった。「死に方くらいは選ばせてやってもいいが、どうする」 地の底から聞こえるような声が鼓膜を突く。どうする、だなんて、喉を絞め上げる力が、首を振ることも声を出すこともさせまいとしているくせに、この残忍な男は歪めた口でそんなことを言うのだ。心底から軽蔑が湧き上がって、恐怖すらも凍りついた。せめて男の思う通りの顔では死んでやらないと決めて、微笑む。ふう、と吐き出された葉巻の煙は、私のその最期を見て浮かべた男の表情を隠した。

* * *

気に食わない生意気な女だった。腹に穴を開けてやろうか、ミイラにしてやろうか、縦か横に切り裂いてやろうか、蠍の毒で苦しめてやろうかと思案したが、最期の最期に毒気を抜かれてしまった。だから、シンプルに首を絞めた。血みどろにするのも渇かせてしまうのも面倒になった惜しくなった。ああ、だが、殺してしまってからではどうしようもないことだが、――なぜ最期に、あんなに綺麗に笑ったのかは、訊いてみたかった気がした。

(2018/08/02)
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out of options


 拒絶のつもりではなく、ただ、その迫力に負ける形で後ずさった私のかかとが、部屋の壁を蹴る。くわえた二本の葉巻の煙をやや斜め下に吐き出しながら、目の前の大きな男の人は少しずつ私との距離を詰めてきた。この人に追われて捕らわれる海賊の気持ちの片鱗を、海賊でもない私が味わうことになろうとは。それほどまでに、彼からあふれ出る空気には力があった。
「言ったろ、部下のままでいたけりゃあさっさと逃げるんだな、と」
 無意識に鳴らした喉の音が、静謐にはよく響く。それを聞き咎めて、悪役のような低い声が私を諌める。
「スモーカー大佐……」
 確かに彼は、男と女の関係になってしまう前に部屋を出て行けと言った。そう、けれど私には、その警告を受諾するつもりは――男としての彼を拒絶するつもりなど、本当にないのだ。
「……いいえ、私はあなたから逃げたりしません、スモーカー“さん”」
 壁にぴったりとつけた背中に汗がにじむ。それでも精いっぱいの返事は目を逸らさずに言い切った。
 スモーカー大佐は白煙混じりのため息をもらし、白い頭をガシガシとかく。
「ったく、後悔しても知らねェからな!」
 怒ったような声が鼓膜を揺らすと、私の腕が素早く引かれ、背中が壁から浮く。痛みが走るほどの力強さで引き寄せながら、そのコートしかまとっていないむき出しの胸元にはとても柔らかく着地した。
「後悔なら、配属されてすぐにしましたから」
「……そりゃあどういう意味だ」
「それは」
 言葉尻も見た目もものすごく怖いのに、いざ触れるときにはこんな風に腫れ物みたいに扱ってくれる。そういう優しさを知ってしまったときに、私は、
「……あなたを好きになってしまったからです」
 嘘偽りなく答えると、頭上でもういちどため息が聞こえて、私を捕まえる腕に少しだけ力がこめられた。

(2018/08/21)
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冬の果


「……お前ねえ」
 言葉に混ざる呆れ半分のため息が、頬をわずかに冷やしていく。長身痩躯のその人は、腰を曲げて私の顔をすがめ、再び諦めのため息を吐いた。
「そりゃあまあ、あれよ……確かにおれが言い出したことだけど」
 三大将の中でも格段にゆるりとした振る舞いの青キジさんが、やはりゆるゆるとした所作で頭を掻く。困らせてしまっただろうかと顔を盗み見るが、厚めの唇をやや尖らせた表情は、何の感情も教えてくれはしない。
 そもそも、この人がだらけているのは態度だけでも喋り方だけでもない。女性関係も同様で、(それが成功しているかどうかは知らないが)わりと好みの女の人を見かけるとすぐに夜の予定を聞き出したり、セクハラめいたことを言うのだ。
 ちなみに、この人の直轄の部下になって数週間が経過するが、私が声をかけられたのは三回。声をかけている場面を目撃したのは数知れず。
 ただ、青キジさんの困ったところは、『それが本気かどうかわからない』ところなのだ。私に声をかけてきたのもどこまでが本気かわからなければ、他の女性への声かけが本気なのかもわからない。
 それで、もうひとつ困ったことを言うと、私は青キジさんのことが好きなのだった。――だから。
「青キジさんのためなら予定、空けます。……明日の朝まで」
 今夜ヒマ? と、通算四回目となるその質問に、こう、答えたのだ。
「お前ねえ……」
 さっきと同じことを言いながら、青キジさんがまた長いため息を吐いた。
「あんまり年上の男をからかうもんじゃないよ、若ェおねーちゃんがさ」
「……からかってなんかいません」
 少しむっとする。
 先にからかったのはそっちなのに。私は、冗談を本気にすんなよって笑われるのが怖くて断ってきただけなのに。例えあなたにとっては冗談でも、私はその冗談を言われるだけでも口から心臓が出そうなほどドキドキするのに。
「もしも本気だって言ったら……困らせてしまいますか?」
 今だってこんなにもドキドキして胸が張り裂けそうになるほど、あなたへの気持ちは本気なのに。
「……まいったね、こりゃあ」
 まっすぐに見つめていると、青キジさんがもう何度目かわからないため息を吐き出す。ただ、それは決して不穏なものではなくて、
「お前だけはいつか本気にしてくれりゃあと思ってたが、いざとなると格好つけられねェもんだな……」
 そうやって、自嘲めいた笑いが含まれたものだった。
「――そんじゃあ、お言葉に甘えて、今夜はディナーにお付き合い願おうじゃないの」
「え……えっ……?」
 予想外の展開に目を盛大にしばたたかせていると、青キジさんは私にずいっと顔を近づけ、指を差してきた。
「あーあと、ほら、あれだ、キャンセルはもう受け付けねェから、そのつもりで」
 まっすぐに貫いてくる細い目は日頃の物柔らかな瞳と違って真剣そのもので、その言葉を冗談にする気はないと語っている。
 全身を包むひやりとした空気の中、私は大変な人を本気にさせてしまったことを痛感していた。

(2018/08/31)
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涙雨は降らさない


 彼女の心は泣いていた。
 心はずっと泣いていたが、その女は、行かないで、とは決して言わなかった。それだけで、クザンにとっては愛した価値があったし、この先も愛する心づもりができた。
「なァ……止めてくれやしねェの?」
 我ながら意地の悪い質問だという自覚はあった。止められたって止まる気などない男が、本当は止めたいのを耐えて泣いている女にそんなことを訊く。
 ただ、止まらなくとも、止めてはほしかったのかもしれない。
「もちろん止めたいです、行かないでほしいです……」
 女は涙声で答えて、一度口を閉ざす。そのまま、背の高いクザンの脚に抱きついて、白いスーツに嗚咽を吸わすようにして泣きそうになるのを堪える。
「でも、クザンさんにはご自身の正義を貫いてほしいから……。私は……私が、それを邪魔したくないんです」
 クザンは明日、元帥の地位を懸けた戦いに赴く。
 地位が欲しいのではない。ただ、この海軍を相手の正義に任せたくないからだ。
 だが、それは容易ではない。死にに行くに等しい。死ななくとも、五体満足では戻れないだろう。
「だから……私は、ここであなたの帰りを待っています」
 それでも女は顔を上げ、止めない覚悟を胸に置いて、待つと言い切った。
「……あららら、そうなると行ってくるって言わなきゃあ、甲斐性なくなっちまうわな」
「……ッ」
 大きな雫は、その眼で留まっている。クザンは腰を屈め、こぼさないように必死で耐える女のまぶたに唇を落とした。
 彼女が泣かずに見送ると決めたのならば、自分もまた、彼女を泣かさないと誓わなければ――生きて帰る覚悟を決めなくては、男として、この女には釣り合わない。
「ま、ちょっとの間だけ待ってなさいよ。やれることやったら、すぐ帰ってくる」
 せめて健気に耐えるその涙が落ちないようにと、らしくもなく祈りを込めた口づけは、女のまつげを薄く凍らせた。

(2018/09/01)
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