柔らかな陽光を斜めから浴びる彫像は、その白さを一層のものにしており、室内に佇む女子生徒が思わず息を飲むほどだった。いつも厳しい顔をしていて、何度描いても上手く描けなかった“彼”は、今日に限っては温厚に眉を垂れている風に見える。
「今なら、上手にデッサンしてあげれそうなのになぁ」
近寄って、柔らかくパーマのかかった“彼”の髪を撫でる。
本当はクロッキーでもいいから、最後に記念に描きたいと彼女は思った。だが、何せ時間がない。ただでさえ、思い入れの強い美術室を見ておきたいがために、家族に無理矢理頼み込んだくらいなのだから。
そう、彼女はこの聖エルミン学園の美術部員――だった。
昨日までは学園に所属していたし、美術部の一員だった。しかし昨夕に行った手続きで、既に彼女の籍はこの学園にはない。引越しは今日、出発はもうすぐだ。
「いつも不細工に書いてごめんね。もっと勉強して練習して、上手に描けるようになるから」
親しくしていた園村麻希という少女は、短い時間で綺麗にデッサンを完成させていた。才能の差、という言葉で片付けるのは彼女にとって悔しいものだったが、それを補うとすれば相当な練習が必要だという自覚はあった。無論、次の学校でも美術部に入るつもりでいるし、大学も美術系のものへ進学する予定だ。
早朝の静謐をたたえる美術室をゆっくりと歩きながら、元聖エルミン学園の生徒であった少女は思いを馳せた。
卒業を待たずして、皆より一足先に去らなければいけない学園。厳かさと明朗さを併せ持っていた、レベルの高い美術部。憧れであり、目標であり、とても大好きだった愛らしい友人。
そして――その友人を、とても優しい瞳で見ていた同じ学年の稲葉正男という男子生徒のことを、植野絵美はとても愛していた。
一見すれば軽く見える制服の着崩し方や、少し悪ガキめいた口調。しかしながら芸術を愛する豊かな心を持ち、情熱的で真っ直ぐな優しさを持つことを、絵美は誰よりもよく見ていた。皮肉なことに、彼が麻希へ抱く決して淡くない想いにも、彼女は逸早く気が付いていたのだ。
「やっぱな、植野ならここだと思ったぜー」
丁度思いを巡らせていた人物の声が聞こえ、絵美はよもや幻聴かと疑った。振り返り、美術室の戸口に立つ稲葉正男の姿を見て、驚きに目を剥く。
「い、稲葉くん? どうして、ここに……」
「昨日園村に聞いたら、早朝に出発だってんでよ。んで家に行ってみたけど、姿が見当たらねーから」
少し上擦った響きに気付く様子も見せず、稲葉は軽く背を丸めたまま大股で彼女へ歩み寄る。
仄かに垂れ下がって気配のある丸い瞳が、早朝ゆえか眠たげに瞬きを繰り返した。いつも被っているデザイナブルな黄色の帽子も、気のせいか睡眠不足でくたっと曲がっている。その柔らかな帽子を徐に被り直しながら、彼は絵美へ咎める視線を向けた。
「……ったくよぉ、オレに挨拶もさせねーんだな」
「ごめん……何だか言い辛くって」
元々、彼とは麻希という友人を通じて知り合った仲だ。稲葉と絵美が、麻希と絵美や彼と麻希以上に親しくなることは極めて難しかったと言える。だが、同じクラスになったことも無ければ、会話をする機会にすら恵まれなかった彼女にとってみれば、それは非常に幸運なことであり、不満を抱いたことなどは無い。
長く病院へ入院していた麻希が退院した後、より一層親しさを増したように見えた二人とは違い、自分は彼と深い間柄ではないと自覚していた。したがって、わざわざ転校する旨を伝える必要はないと思っていたのだ。もちろん、別れを告げるのが辛いという理由も大きかったが。
「今日からここに植野がいねーって思うと、何か寂しいよなぁ!」
少しばかり俯いた様子から目を背けるようにして、彼は足裏を擦らせながら窓際まで歩いた。窓から射し込む光を浴びて大きく伸びをし、敢えて明るい声で言う。
はっとして顔を上げた絵美の目に、あまり背の高くない後ろ姿が映り込む。次の瞬間、にっと少年らしい笑みを浮かべてこちらを振り返った。
優しくて悪戯な笑顔が妙に頼もしく感じるようになったのは、例のセベク・スキャンダルの後くらいだろうか。絵美はあのとき学園内に閉じ込められていたのだが、帰ってくるなり「全部終わったんだ」と言った彼の顔は、妙に大人びて見えた記憶がある。
「転校した後も、絵は続けるつもりなんだろ?」
「うん……時期的に美術部には入れないかもしれないけど、でも続けるつもり」
「あーそっか、丁度クラブ引退の時期か。入れるといいけどな、やっぱ道具とか揃ってるだろーし」
思えば、彼と二人でいられる時間などは初めてだ。絵美は騒ぎ立てる気持ちを必死で抑え込みつつ、稲葉の言葉に数度頷く。しかし緊張ゆえ続かない会話が、すぐさま沈黙を生み出してしまう。
何かを言うべきだと思い当たり、それでも話題が出てこない自身の情けなさに辟易とし始めた瞬間、静寂の美術室に指を鳴らす音が響いた。
「そうそう、こいつ! こいつだ!」
我知らず俯いていた顔を上げ、音の方を見遣る。すると稲葉が、先刻絵美が見ていた白い彫像の頭をぽんぽんと叩いている。
「……その彫像がどうかしたの?」
「植野がデッサンするとよぉ、こいつが笑ってるように見えたんだ。多分、優しい気持ちで描いてんだろーなって思ってた」
“彼”のパーマ頭を指先で辿りながら、決してこちらを見ない稲葉が言う。それが気恥ずかしさゆえだと察した絵美は、何より言われた台詞に大きく目を見開いた。
自分の絵を見ていてくれたことや、その絵から何かを感じ取ってくれていたことを、初めて知った。
他の誰かの絵と比べては、自作の不出来に苛立ちを覚えていたデッサンを、彼は。
「オレ、お前の絵が好きだったぜ。だから……絵、頑張って続けてくれよな」
――好きだと、言ってくれた。
「バッカ、泣くなよ! オ、オレが泣かしたみてーじゃねーか!」
耳をほのかに赤く染めた稲葉が、ようやくと絵美の方に向く。まさか泣いているとは思わずに、そこで初めて異変に気が付き、ぎょっとした表情を浮かべた。慌てて駆け寄ったものの、どうしていいのかも分からずに立ち竦む。
そんな彼の不器用な優しさが、また胸をちくりと突き刺して、涙は益々と止まらなくなっていった。
「時間無いから……もう行くね。……ねえ稲葉くん、最後に握手してくれる?」
「あ、ああ。それくらいお安い御用だぜー」
涙の泉からは続々と雫が溢れて、枯れる気配を見せない。しかし無情にも時間は迫り、絵美は後ろ髪を引かれる思いで握手を申し込んだ。
戸惑いがちに差し出された手を握って、その温かさにまた目の奥が熱さを増す。
「私、頑張るから……好きでいられる限り、ずっと絵を描いていくから」
「おう、個展とか開くときは教えろよな。一番乗りで駆けつけてやっからよ!」
気が早いよと笑おうとした声は、自らの嗚咽に阻まれて発せられなかった。それならばせめて、柔らかい温もりを少しでも長く記憶に残そうと、絵美は彼の大きな手を握り締めたまま何度も頷いた。
* * *
絵美の家族を乗せた車は、新しい街へと辿り着こうとしている。車窓をスライドしていく景色は全てが新鮮で、家族全員がこの街を好きになれそうな予感を胸に抱いた。
そして、絵美自身は目尻を少し朱に染め、まだ涙の跡を頬に残しながらも、一つの想いを胸に秘めていた。
新しい街で初めて描く絵は、真っ直ぐで情熱的な少年の似顔絵にしようと思う。
自分が好きになった、とても優しい少年の。