観るともなしに点けていたテレビドラマが、感動のフィナーレを飾る。ふと鼓膜を揺らした最後のキャッチコピーを、一人の女がうら若き容貌に似合わず、軽い嘲りを込めて笑った。
そんなものは、ただの夢物語だ。
直後、今度は夢の無い自らに思いを巡らせ、皮肉の孕んだ笑みを吐いた。
三年前の秋頃から、女はひどく自嘲するようになっていた。正確に言えば、三年前に起きたとある事件の後からである。
事件の名は、東京都御影町エネルギー隔壁事件。マスコミがセベク・スキャンダルと囃し立て、世間を驚愕させた一連の騒動であった。
ブラウン管では感動の余韻を残すかの如く、スタッフロールが緩やかに流れていく。
間違いなく、緩やかなのだ。あれから流れ続ける時間も、今ある平和も。しかし、彼女の記憶や想いは、その波に乗り遅れてしまっていた。三年の月日をもってしても、感情はいくらも薄れていかない。
女がまた自分を笑った。皮肉と嘲弄を込め、ほのかに淋しげに。
その笑い方は、ある男の笑い方と非常に酷似していた。例の事件が起こるまで、彼女が従い、慕い続けた男。そして今もなお、心の多くを占める男である。
女は、その男の秘書を務めていた。正しくは“表向きの”秘書ではあったが、彼女はとても誇らしく思い、心身を砕く覚悟で働いた。
彼へ抱く想いを顧みると、愛情とは呼べないように思う。信頼でもなかったように思う。いついかなるときも連れ添うことが仕事であったし、信じるにはいささか謎の多すぎる男だったためだ。
しかし、共にいることが当たり前であるとは言え、彼の存在感は大きかった。誰より、何よりも大きかった。ならば、彼がいなくなったと知った後、凄まじい喪失感が襲い来るのは、至極自然なことと言える。女は、まさにそのような喪失感に、この三年間苛まれ続けてきた。
か細い息を吐き、テレビを消した。
セベクと、セベク御影支社の最高責任者を失った御影町の夜が、しんと広がる。ふと視線を横這いに動かせると、カーテンを閉ざし忘れ、剥き出しになった窓に自身の姿が反射していた。
どこか卑屈で、己すらも見下したような、その表情。
そういえば、彼も時折こんな顔をすることがあった。長く傍にいるうちに感化されたのか。それとも、会えない日々の虚しさが、無意識のうちに彼を真似させたのか。
アンニュイな横顔を脳裏に描く彼女の胸を、色褪せない思い出がじわりと焦がす。
街は、静かなままだった。
数日後、イブからクリスマス本番へ差し掛かる頃。都心にて慎ましやかにパーティーを終えた女は、御影町を自宅へ向けて歩いていた。
街は今日も静かで、見上げた夜空には、雪でも呼びそうな暗雲が覆っている。それでも、ホワイトクリスマスなどという洒落た夜にはならないだろう。都内で、そう都合良く雪は降らないし、サンタクロースも存在しない。
クリスマスに、奇跡は起こらない。
ゆえに、彼女の足が、ふと自宅とは別の方角へ向いたのは、ほぼ間違いなく偶然という理由であった。
三年という月日は短いようだが、実際はそうでもない。少なくとも、マスコミの標的となって経営破綻した企業のビルを軽く朽ちさせる程度には長い。
かつて働いていたその建造物を見上げ、自分が何故ここに来たのかを考える。だが、これといった理由は浮かばない。
彼女は、後にこう話す。
その場所に用事など皆無であったし、行こうとも思っていなかった。まるで心を操られているかのように、自然と引き寄せられたのだ、と。
不可解さに首を傾げる前方で、夜の深い闇に包まれたセベクビルが、薄気味悪い風情で佇んでいる。見つめ続けていれば、多少なりの感傷が過ぎるにせよ、やはりこれといった用件は浮かばない。
さて、寒空の下、大それた理由も無くこの場に立ちすくむほどのロマンチシズムを、女は持ち合わせていない。溜め息混じりの白い呼気を吐き出すと、鞄を肩に掛け直す。そして、本来の帰路へと戻ろうとした、まさに一歩目。彼女は、幻聴と思しき声を聞いた。
それは、幻聴でなければならぬ声であった。幻聴でしかない声であった。
何故ならば、その低い声の持ち主は、ここにいるはずがない人物。三年前まで女の上司であり、かつ、セベク・スキャンダルを起こした張本人の男だったからだ。
くだんの男は、秘密裏に開発していたという次元可変装置の暴走に巻き込まれ、失踪だと言う。あくまで一個人の推測だが、女の勘という凄まじい第六感から、彼が二度と戻らないことを確信していた。であるからして、彼女はそれを幻聴としか思えず、疲れているのだと結論を出した。
しかし、幻聴は二度目を奏でた。
このような夜更けまで残業かね、と。最初のときと同じく、皮肉な問い掛けの声であった。しかし一度目とは違って、聞こえないふりを決め込んだ様子を咎める響きを持っていた。
ただ、この場が錯覚させているだけの空耳だ。そう思う反面で、女の口内は急速に渇いていく。
喉の深い位置で立てる屈折した笑いも、ゆったりとした優雅な足音も、幻の類で片付けるには生々しい。
彼女に限って、その旋律を聞き分けられないはずは無いのだ。
ずっと忠実に仕えてきた男を。とてもささやかではあったが、いなくなって尚も慕い続け、僅かながらに逢いたいと願い続けてきた彼が放つ音色を、聞き間違うはずなどが。
静寂の中、遠くで車の走る音がした。
それこそがこの現世の音色に間違いないと言うのに、女には何故だか幻じみて聞こえていた。
緩やかな足音が数歩後ろで止まり、くぐもった笑声に変わる。
背後の男が問う、今宵は何という夜だったかと。
男が話すと同時に、真後ろから寒さに濁る吐息がたゆたう。それを視界の隅に入れ、彼女は喜びとも畏れともつかぬ身震いを起こした。
確かにいるのだ。あの、誰よりも聡明であった男が、後ろに。
ならば、彼の問いに答えを出さねばならない。無視することも、陳腐な解も許されない。
女はしばし黙考する、先の問いに含まれた真意は何かと。
どちらかと言えば、和を好む男である。ミッション系の聖エルミン学園に在籍していたからとて、熱心なキリシタンとも思えない。クリスマスという愚直な答えは求めていないだろう。
明かりの無い夜の如く、真っ黒いスーツを着こなす男は、思案にふける女の背中を静かに眺めた。
かつて己の秘書として、毎日正装に身を包んでいた彼女の肢体は、最後に会ったときより幾分肉付きが悪くなっている。痩せた原因の中には、自らが野望のために起こした事件もあるのだろう。さりとて、男に謝意などは毛頭無い。
スーツよりも闇深い色のサングラスを掛け直し、徐に右手をスラックスのポケットへ滑り込ませる。すると温もりの無い指先に、二対の球体が当たった。カン、と乾いた音を立てたそれを、彼はポケットの中でもてあそぶ。ゆるゆると玉遊びに興じ始めて間もなく、女が喋る気配を見せた。
三年前、彼女は優れた秘書であった。男に“裏の顔”があったにも関わらず、知りながら知らぬ振りを務め上げた。また密かに、その顔を他人に悟られないようにしていたのだ。
斯様に、気配りの細やかな人物である。だが、上司に媚びを売る狡猾さは無かった。その程度ときたら、もう少し気に入られんとする姿勢の一つでも見せてはどうかと、この冷徹な男ですら思ったほどだ。その冷めた姿に失笑しながら、それでも彼は、確かな好ましさを覚えていた。
自分を慕っている割に、尻尾を振ろうとはしない。
彼女の矛盾がおかしくて、そして、ほのかに愛おしい。
そう思う自らの心すら矛盾であり、嘲りに値するとは分かっている。だが、だからこそ男は、女を試してやろうという悪意に辿り着いたのだ。
会えない月日を経て、慕わしい人物に再会した彼女は、果たしてどのような答えを出すのであろう。
逢いたかったと泣くのか、この再会を無かったことにするのか、クリスマスの奇跡に感謝するのか――。
ずば抜けて切れる頭脳が、幾通りもの答えを導いたとき。女は、薄く開いた唇から冬の空気を吸い込み、言葉として吐き出した。
「ただの寒い冬の一夜です、神取様」
事務的に言い、マニュアルに倣って振り返る。その面差しに、再会の感動は見当たらなかった。
一瞬訪れた無音の後、神取と呼ばれた男が肩を揺らす。
すなわち、この女はクリスマスなど特別視していないと。彼と再会した今宵ですら“ただの”夜であると言ってのけたのだ。
相変わらず、愛想も感慨もにべも無い。けれども、相手が求めることを、男がクリスマスなどという偶像を信じていないことを冷静に読み取り、正確に応じる。
矛盾したこの忠誠心が、まことに興味深い。
彼は、矛盾を疎んじる<混沌>によって導かれ、現世へ復活させられた。三年前、穏やかな最期を迎えたことを思えば、不幸とも言えよう。しかし男は、矛盾の象徴とも言える人間を一掃せんとする、その意志に沿うことを是としていた。何故ならば、その<混沌>という神が、かつての自身、つまり自らのペルソナであったためだ。したがって、いずれ矛盾すら極めてしまうのかもしれない愚劣な人間は、男にとっても嘲笑の対象だった。
彼女とて、例外ではない。著しい変化を見せずとも、確実に育ちゆく矛盾を抱えて生きる、浅はかな人間だ。哀れみや蔑みの気持ちは否めない。しかし、この愚民であるはずの女は、好ましいと思うことが出来る。
矛盾であった。激しい矛盾であった。
<混沌>は、そんな己をやはり人間かと鼻先で笑うのだろう。例え異形と成り果てても、自分は人間なのだ。
中央の縁を指先で持ち上げ、男がサングラスを掛け直す。そうしてから、女へ答え合わせもせぬまま背を向けて、軽く口角を上げた。
「今の私の名は神条久鷹だ、綾乃君」
心臓ごと鼓膜を震わせる艶声が、白い吐息となってクリスマスの夜空へ舞い消えていく。
悠然と歩み始めた自分本位な背中が、ついて来いと語る。有無を言わさぬ無言の命令に、女は神条様、と諦めた風に呟いた。けれども、その口元にはごく僅かな微笑が一つ。
三年前から、彼の秘書であることを放棄した覚えは無い。他の誰かに仕えたことも無い。自分の上司は、間違いなく彼だけなのだろうと思う。
まだ言い慣れない名前をもう一度紡ぎながら見上げた空は、中途半端な曇り空。雪は降りそうにないし、サンタクロースが贈り物を届ける気配も無い。やはりクリスマスの奇跡など、夢物語に過ぎない。
だが彼女は、この起こり得るはずのない再会をどう呼べばいいのか、少しだけ迷っていた。例え<混沌>という名の悪がもらたした再会であれ、これは、ある種の。
いささか戸惑いがちな足取りを後ろに聞きながら、男はこの三年もの間、女がよくしていたような卑屈な笑みを面差しに宿す。
人間の、いや。彼女の矛盾は、果たしてどう転ぶのか。そのとき彼女は、どうするのか。己はどうするのか。
まったく、この世はくだらない愉しみに溢れている。
男は、都内にある政令指定都市のことを考え、いずれその街を襲う運命を思う。そして肩を揺らして笑いながら、掴み所のない顔で振り返る。気配を感じた女が顔を上げ、ただ普通にしていても強い眼差しを受け止めた。
絡んだ視線に、矛盾が行き交う。
しばらくは退屈せずに済みそうだと一人ごちて、黒い男は両手をポケットに入れる。スーツの中でキン、と鳴った球体の音色を最後に、女の存在は巷間から姿を消した。
女は一人、珠閒瑠市の南方、開発中の鳴海区の沖合いで空を見上げた。クリスマスの曇り空と比べれば、非常によく晴れた美しい星空だった。
これが最後の夜空になるかもしれない、と。自嘲の消えた微笑を携え、たった一言だけ海へ捨てた。そうして夜空へ別れを告げ、男が待つ潜水艦ドッグへ向かう。しかしながら、廊下を進む歩みに迷いは微塵と無かった。
何故なら、彼女は秘書であるから。例の男の傍らで、彼の補佐をする秘書であるから。
彼女は三年前と同じく、優秀であった。極めて冷酷な“裏の顔”を目の当たりにしても、その忠誠心を揺るがせはしなかった。
だから、女は行く。
どのような結末が待っていようとも、自分が彼の秘書である限りは、務めを果たす。それが仕事ゆえの責任なのか、純粋な愛慕なのか――未だに、女の矛盾に決着はつかない。
彼女が甲板から消えた後、闇の中、ふと夜の海が波打つ。
未来永劫、人間が抱き続ける飽くなき男女の矛盾。彼らの葛藤は、今宵、この海の底に沈む遺跡にて明らかになる。
何とはなしに甘美さを想起させる海面は、二人の訪れを待ち侘びて、ゆらゆらとうねっていた。
まるで、彼らを飲み込まんとするように。