P3時間軸です「ご無沙汰しております」
深紅の長い髪が優しいウェーブを描きつつ、叩頭と共に静かにしだれていく。
年齢以上に礼儀正しい少女を真正面に据え、理子は眼差しに慈しみを乗せて微笑む。彼女が顔を上げたことを確認してから、伸びた背筋で頭を下げ、返礼をしてみせた。
「本当にお久しぶりね、美鶴さん。ご家族にお変わりはないかしら?」
この数年で仕込まれた礼節を存分に生かし、理子は優美な所作で頭を上げる。愛おしげに細めた視線に変化は見られず、美鶴と呼ばれた少女も幾らか緊張を緩めたようだった。自ずと和らいだ面差しで、はい、と首を頷かせる。
「理子さんもご健勝のようで何よりです」
少女の名は、桐条美鶴。世界規模で名を知らぬ者はいないであろう巨大な南条グループの分家となる、桐条グループの令嬢であった。
もう何十年もの実績を誇る南条グループとは違い、まだ新しい桐条グループは、現状厳しい経営状態が続いている。先代の総帥亡き今、グループの再建を担うのは彼女である。それだけに気苦労も多いはずなのだが、その立振る舞いは超然としている。
「ところで理子さん。圭様は遅れるとのことですが……お忙しいのですか?」
美鶴は視線を軽く動かし、広い和室を見渡す。
この部屋は、珍しく本邸へ訪れるという彼女のために、南条グループの現統帥自ら人払いをして用意したものである。そう滅多と無い機会なのだから、三人で粗茶でも、という心積もりだったのだが、その本人である南条圭の姿は見当たらない。
「ええ、南条は急ぎの仕事が入ってしまって。ごめんなさいね、随分前からお約束していたのに」
「いえ……」
理子が、婉然と微笑んで謝罪する。目上である彼女に謝られてしまっては、まだ若い美鶴は首を振る他ない。
ちなみに、急ぎの仕事、というのは完全な嘘であった。
おそらく南条圭という大御所に対し、非常に横柄な言動を取れるのは、学生時代からの付き合いである彼女と、その仲間だけであろう。倣岸な彼に斯様なことをしては、当然ながら後々へそを曲げて面倒事になる。しかし、そこは長年を同級生として、及び――人生の伴侶として連れ添った彼女にとっては、曲がった機嫌を直すことなど赤子の手を捻るようなものだ。
つまるところ、この部屋に二人しかいないという状況は、妻である理子が圭に対して「二人で話したいことがあるから、しばらく入ってこないで」と冷たくあしらった結果なのだ。
「やはり……やはり、トップともなるとご多忙なのですね」
そんな一連の流れを知る由もない美鶴は、愁い節のように呟いて、つり目がちで凛とした瞳を床へ浅く落とす。理子は無言を保ったまま、俯いた少女を見つめた。
しばらくの後、和室独特の厳粛な空気に準じるよう、彼女は静かにまぶたを伏せる。
音を立てずに深呼吸をすると、畳の香りが鼻腔をくすぐった。留め袖から出る指先で自らのかんざしを直してから、視界を開く。美鶴は、まだ嘆きの色濃い愁色を浮かべていた。
「美鶴さんも、そのうちにそうなってしまうのかしら」
あえて淡々とした調子で言った理子を、美鶴ははっとして見た。
「悲しいことね」
吸った息を、そのまま吐き出したような。まるで大意など無いみたいな声で告げ、寂しげな笑顔を少女へ向ける。どう答えてよいのか分からないのだろう、美鶴は黙って彼女の目を見つめ返した。その短い沈黙の中、理子はもう一度呟く。
とても哀しいことね、と。
「……私は、桐条グループの軸となるべき人間ですから」
三度の沈黙に終止符を打った美鶴の言葉は、毅然としながら、それでいて諦めた口振りを秘めていた。
伏し目がちに視線を横へずらし、理子はかつて圭の話した言葉を思い出す。
聖エルミン学園に入学する前、次期総帥だ、御曹司だと騒がれ、周囲の勝手な期待を背負わされ、その抗えない圧力に苦しんでいた。そんな自身に嫌気の差した彼は、親に反発して聖エルミン学園を選んだのだと言う。誰からも褒められなかったその決意を唯一優しく見守ったのは、執事の山岡であった。そしてセベク・スキャンダルが起き、山岡を失った代わりのように仲間と出会った。
だからこそ、自分は山岡と仲間を心から尊く思えるのだと、ほのかに照れ臭そうに、そう言っていた。
「美鶴さん、あなたは……そう在る前に、桐条美鶴という個の人間でしょう?」
現在、彼は南条グループの御曹司ではなく、南条圭で在ることを望み続け、また、実行し続けている。
そんな圭を、彼女はとても誇りに思っていた。
「理子さん……」
「だから、あなた自身が大切だと想うものに重きを置けばいいと思うの」
おそらく、この美鶴という少女も、いつか彼が抱いた葛藤と同様のものに苛まれているに違いない。桐条という名字に、何かしら嫌気を感じているに違いない。
理子はその確信めいた直感ゆえに、彼女との対話の機会を設けた。
幸せになってほしいと願うことが、どれほど我が儘だとしても――同じ女として、幸福を手にしてほしかった。
けれども、夫である南条圭は、立場的に理子の意見へ賛同は出来ない。だからこそ、彼の立ち入りを拒んだのだ。
「南条は、……圭は、私を傍に置くことを選んでくれたわ。お父様の猛反対にもめげずにね」
二人が恋仲になったのは、彼が大学を首席で卒業して凱旋してからのこと。人生の伴侶ということを考慮し始めたのは、それから二年後のことである。
大グループの次期総帥と、一般市民。二人の間には紆余曲折すぎる問題があったのだが、今はこうして同じ屋根の下で生活をしている。それはひとえに、圭が“南条圭”であるがゆえであった。
恥じらいの欠片も無く言ってのけて、理子は自慢げに微笑んだ。ともすればのろ気になりかねない言行を、美鶴は嫌な顔一つせずに頷く。
「ねえ美鶴さん、グループ以外で守りたいものはある? あなたの守りたいものは、何?」
問われた彼女の横顔に、哀愁が漸増していった。無言の長い静謐を邪魔することもなく、優しげな微笑みをたたえて、ひたすら答えを待つ。
ひどく長い時間の後、美鶴は頬を鴇色に染めて俯く。まだうら若い彼女の脳裏に、年下の少年がちらついたことは誰も知らない。
「私にも、守りたいものはあります……」
絞り出された小さな声を聞き、理子は幸福そうな笑顔を見せる。
「私も……圭様のように、大事な人の傍に在りたい……」
裾を払って立ち上がり、自らの発言に戸惑う美鶴へ近寄る。すると、まるでむずかる子供にするように、理子はそっと彼女を抱擁した。
夕食を共にした桐条美鶴が帰った後、日本茶からアルコールへと飲み物が替わる。彼女が気を利かせ、手土産として持ってきたワインが注がれていくのを見つめ、理子は口元を緩めた。
「ねえ、いつから盗み聞きしてたの?」
彼女の夫である南条圭は、三十路が近付いても、あまり外見の印象は変わらない。いつものように唇をへの字に曲げ、唐突な質問に押し黙った。
「盗み聞きだなんて、趣味が良くないと思うんだけど」
「気付いていながら知らぬ振りをするお前も、趣味はあまりよろしくないだろう」
「また、そうやって自分を正当化するんだから」
本邸で過ごす二人きりの貴重な夜は、通常よりもはるかに優しい。学生時代から変わらない応酬もどことなく軽やかで、黙秘権を通す圭の眼差しも穏やかだった。
「理子……」
くすくすと笑っていた彼女が、名を呼ばれて顔を上げる。
三人掛けのソファに座ったまま、首を傾げて次の言葉を待つ理子の隣に腰を落とし、彼はいささか硬い面持ちで唇を薄く開いた。
「お前は……かつての俺が感じ、今の彼女が感じているように、南条の名を」
その先を言いよどみ、目を背けてワイングラスを持ち上げる。
彼は自信家であった。だが、ただの自信家ではなく、何かを失うことに恐怖できる自信家であった。
もしも、この問い掛けを彼女が肯定してしまったら?
珍しく弱気な考えに思い及び、双眸を細める。理子は彼を真っ直ぐに見つめ、距離を詰めるように腰をずらした。
もう数年以上を夫婦として過ごしてきたのだ。夫が何を問おうとしていたのか、分からないはずはなかった。
「南条の名が窮屈じゃない、って言ったら……嘘になるんだと思う」
圭が、眼鏡の奥の両眼を伏せる。どこか罪悪を感じさせる仕草に、理子もまた罪の意識を覚えて、胸がちくりと痛む。しかし、彼女もゆっくりと目を伏せると、口元を優しい形にかたどり囁いた。
「けどね、圭……私、幸せだから」
やや瞠目した夫の視線を感じ、まぶたを上げる。はにかんだ微笑みを向けてから、また瞳を閉じた。
持っていたワイングラスを軽くあおると、らしくもなく緊張して乾いていた喉に渋みが通っていく。圭はそれを一口飲み下し、グラスをテーブルへと戻した。
「私、幸せだよ。大丈夫」
恍惚と言って、理子は頭を隣の肩口へ預ける。二つの体温が行き来して一つとなる頃、彼女は再度口を開いた。
私は、南条という名の束縛を、愛しく思っている――と。
「……当たり前だ」
可愛くない返事だったと後悔しながら、圭は彼女の頭に己のそれをこつりと重ねる。
泣きそうに微笑む彼の面立ちを映しながら、ワイングラスの中で、少女の持ってきたワインが音も無く揺らぎ続けていた。
ワインの色は、深紅。
情熱的な少女の髪の色に、よく似ていた。