捕まえていた腰をぐっと引き寄せれば、女は自ずと背を弓なりにしならせる格好となる。「あっ」という小さな声とともに薄く開いた唇の、その隙を狙い澄まして舌先をねじ込む。一層深くなった口付けに、女の身体が強張る。逃れよう抗おうともがく動きにすら悦楽が生まれ、徐々に力の抜けていく肢体にすら征服感が生まれた。
唇を離して見た女の顔に、苦悶と恍惚の入り混じった表情が浮かんでいる。陸に打ち上げられた魚のように酸素を求め、喘いでいる。止め処なく湧いてくる、ひどく加虐的な感情を己の中でたっぷりと楽しんだ後で、神取はようやく身体を解放した。
「これで終わると思うな」
神取の声には一切の淀みがなかった。対して、投げ出された格好で床に座り込んだ女は、まだ息の乱れが整っていない。大きな呼吸を繰り返しながら、女は神取を見上げた。
再会してからいくらか時間が経過していたが、己に向ける視線には未だに多分の疑問が含まれている。
それもそのはずだ。――かつて神取鷹久は、他でもないこの女、戸出桜芽とその友人らに殺されたのだから。
なぜ生きているのか、なぜ会いに来たのか、なぜ口付けをされたのか。おそらく何もかも理解が追いつかないままでいるだろう。
「何故このようなことを、と問いたげな顔をしているな。いや、何故私が生きているのかということの方を先に答えようか」
まだ幼さの残る桜芽の目には、あり余る疑念の他に、男を煽る涙を溜めている。神取は今にも滴りそうな濡れた瞳を見ながら、いささかの感傷に浸った。
三年前のあの日の、デヴァ・ユガ。己の好みで部屋に散らせた桜の花はただ儚く、神取にずっと不快なささやきを投げかけ続けていた。
これで満足か、と。
望みを叶える鏡を手中に収めた。それによって自らの野望を成し遂げ、望むものは、確かに、全て、手に入れた。
しかし全能の神となったはずの神取は、全てを手にした途端、全てが虚しくなった。
その虚しさを暴いた高校生たちに討たれ、それでも自分は人を超えたのだと、くだらない最後の自尊心で虚勢を張ったとき、桜のささやきが、嘲りに変わった。
心の弱さにつけ込まれ、自身のペルソナであるニャルラトホテプに肉体の主導権を奪われた神取は、意識などほぼないに等しかった。次に目が覚めたのは、再び、自分が討たれるときだった。
その、致命傷を与えたのが、戸出桜芽だ。
ニャルラトホテプは思えば極めて趣味の悪い邪神で、神の座を望んだ男への報いだと言わんばかり、わざわざ乗っ取った神取を金色に輝く如来像の顔面へ変貌させたのだった。そして桜芽は、如来の頭部から突き出た形となっていた神取の上半身、その胸元を剣で貫いた。
唐突に現実へ戻され、激しい痛みに絶句する中で、神取は自らを刺す少女の表情を見て――伸ばそうとした手は、動かなかった。
「私が生きていることのからくりなら簡単だ。生きているのではなく、蘇ったという言い方の方が正確だが」
三年の時を経て、伸ばした手はその頬に添えられた。
びく、と身体を震わせながら、それでも視線を逸らさない桜芽の強がりを一度笑って、神取は続ける。
「君が、この珠閒瑠市に起きている不可解な現象についてどこまで把握しているのか不明だが……端的に言うと、現在のこの街では、強い言霊がそのままの現象として反映される。私はその力で現世に戻ってきた、というところだ。さて……何故このようなことを、という疑問の方だが」
――ああ、だが、あのとき触れたかった頬には。
「三年前、君が涙を流していた理由を訊いてみたかった、と言えば、君は素直に答えてくれるかね?」
あの瞬間、少女は確かに泣いていた。
人を殺すことへの罪悪感だったのか、それとも何か他の強い感情だったのか。桜芽は神取の目をしっかりと見据え、胸に剣を突き立てながら、涙をこぼしていた。
複雑な色をたたえた瞳から細い光の筋を引いて落ちるそれは、思わず拭ってやりたくなるほどの鮮烈さがあったのだ。
「……そんなこと……覚えていません」
「気丈な君も、嘘をつくのはいささか苦手なようだな」
返事の直前、桜芽の視線はやや宙をさまよった。喉の奥で笑いを堪えながら指摘してやると、触れていた頬の温度が少し上がる。その肌から手を離すと、ネクタイを緩め、シャツの襟から引き抜く。
「これから先、運命の糸は君たちを絡め取り、世界を呑み込んでいくだろう」
肩から脱ぎ落としたジャケットが、無機質な床に影を作る。
「……運命の、糸?」
桜芽が自分の指先から目も逸らせずにいるのを知りながら、あえてゆっくりとした所作で黒いシャツのボタンを上から外していく。するりと落ちたシャツはまたひとつ、床に影を広げる。
露わになった神取の上半身には、無数の傷が走っていた。一際目立つ心臓の刺し傷を見て、桜芽がはっと息を呑み、神取は口の端を持ち上げる。
「そうだ。運命の糸と言おうか、それとも因果の糸とでも言おうか……私は、その糸の先で遅かれ早かれ二度目の死を迎えるはずだ」
神取は、自分が与えられた影の役割を理解していた。多少の窮屈さはあったが、不満があるわけではない。最後に迎えるものが死であろうとも、決して拒絶しようとは思わなかった。ましてや、生来の酔狂な気質ゆえ、与えられた宿命や現実をも皮肉ることのできる男だ。神取にとって、現状はまさに享楽にもほど近い。
ただ、もし、もしもこの奇跡にも似た復活で得た、限られた二度目の生の中で、自身が果たしたい何かがあるのだとしたら、と考えたとき、ふと一度目の生の終わりを思い出した。
あのときの若者たちは、今もあの頃のまっすぐな気持ちでいるのかが知りたかった。
あのとき泣いていた少女の、その理由を、その熱を。そして――それは、二度目の死においても流されるのか否か、確かめてみたいと願った。
「そこで、君には再び私が死ぬ瞬間に立ち会ってもらおうと思ってね。……なに、心配しなくてもいい。君に絡む運命の糸は、私自ら手繰り寄せてやろうとも。今現在のようにな」
自分でもまったく戯れが過ぎるという自覚はあった。だが、それだけのために、こうして桜芽を捕らえてきたのだ。
「ところで、桜芽君」
説明を終えて、桜芽の前へ再び屈む。その体をたやすく押し倒して、喉の奥を震わせた。
本来ならば、死ぬ瞬間の表情を見たいという目的のため、自らの傍に置いておこうとしただけだった。ゆえに先刻の口付けは、業や因縁を深めるための行為のつもりだったのだが――目に浮かんだ彼女の涙を見て、とにかく御託は抜きに、この女をただ泣かせてみたくて仕方がなくなった。
組み敷いた女の頬に触れ、その指先を今度は腰へ這わせる。いささか上品ではない方法だが、目的と手段がほんのわずかに変わっただけのことだ。
「――君を、泣かせてみてもいいかね?」
つぎはぎだらけの体の内側で、自らの浅ましい欲望がうずき出す。獣のような激情を隠そうともせず、神取は薄い唇を皮肉な笑みに歪ませた。
もしも今、あの日の桜に同じ問いをささやかれたならば、答えなければならない。
まだまだ泣かせ足りない、と。