夢主の設定が全編通して故人であり、死体についての描写も出てきます




 商店街の近くまで蝉の声が大きく届くほどの、まさに盛夏である。
 まだ昼まで時間があるというのに、青空は夏らしく濃い色で澄み切っていた。妨げるものなどひとつもない真夏の日差しは、道端の雑草へ無遠慮に夏枯れを与えている。炎天下を歩いていた藤堂尚也は、逃げ水に歪むアスファルトから空へと目を移した。その心は、夏空を特段美しいとも感じなかった。
 やや仰のいた姿勢のままで御影サンモールのアーケードに入っていくと、瞳孔が明るすぎる空からの変化に追いつかず、視界がたちまち暗転する。
 目が順応するまでの間の暗闇に、一人の少女が映った。
 彼女は、懐かしさを感じるよりも早く、白んでいく視界に溶けるように消えていく。時間にしてわずか四秒。短い再会は、藤堂に悲哀をもたらす。
 なぜなら――まぶたに映った少女の顔は、死に顔だったからだ。



 あの日、少女は死んだ。
 突如訪れた悪夢に、御影町は呑み込まれた。それは、聖エルミン学園に通う女子学生である彼女とて例外ではなかった。
 決して穏やかな死などではない。人ではない化け物に腹を裂かれ、若い血液が撒き散らされた。前触れもなく未来を剥ぎ取られ、踏みにじられたような惨たらしい死だった。
 もし欠片でも救いがあるのだとすれば、あの戦いを終えた後、偶然にも彼女の亡骸を見つけたことだろうか。
 ゲームセンター『JUDGMENT 1999』内にあるアーケードゲームの前に座った藤堂は、財布から硬貨を取り出す寸前、思い出した映像を払うようにかぶりを振った。
「ナオりん、プレイしねーの?」
 なかなかゲームを開始しない姿が不思議に映ったのだろう。背後から声がかかって振り返ると、同級生である上杉の姿があった。
「あ、いや……小銭がなくて」
「んじゃー両替してくる? その間に、おれ様一回やっちゃおっかな~」
 ああ、と返事をしながら立ち上がると、派手なTシャツを着た上杉とすれ違う。千円札を財布から取り出し、そういえば、と藤堂は一度手を止める。夏目漱石の三分の二を両替機に入れたところで「上杉、俺、今日お前と会う約束してたか?」と問いかけた。
「んーにゃ。けど、オマエ夏休みに入ってからずっとここにばっかいんだろ。だから来ればいるかなって思ってさー」
 上杉の返答の語尾に被さるように、バラバラと派手な音が立てて硬貨が落ちてくる。その勢いが強すぎて、一枚の百円玉が受け取り口から弾かれた。
 藤堂は、床を転がっていく硬貨を拾おうと追いかけた――つもりだった。突如、目の前がチカチカとし始める。
「ナオりん?! オイ、ちょっ……オイって!」
 気がついたとき、床が顔のすぐ近くに合った。慌てふためいた上杉の声が、いやに小さく聞こえている。
 明滅を繰り返す視界が、徐々にかすんでいく。霞の中、落ちた百円玉が円を描いて転がり、それが高い音を立てながら倒れたとき、藤堂の意識は既になかった。
 遠のく意識の中で浮かんだのは、やはり、少女の。



 セベク・スキャンダル――あの日起きた悪夢のような事件は、そう呼ばれている。
 その事件の間、御影町は謎の障壁に阻まれ、外部との連絡はもちろん、往来すらも不可能になっていた。それが事件解決と同時に解消された後、殺到したマスメディアが事件の原因である企業名を取ってつけた名称である。
 しかしメディアはおろか巻き込まれた御影町の人々ですら、セベク・スキャンダルの詳細は知らず、また、知ることもできないだろう。
 首謀者の男が亡くなった今となっては、真実を知るのは事件解決に奔走した藤堂尚也ら数名の同級生のみだ。
 しかし彼らとて、事件の核心“だけ”しか知らない。町でどれほどの惨劇が起こっていたかは、目に見える結果でしか知らなかった。
 ――能代彩香
 ニュースの度に流れる死傷者リストの中でその少女の名を見かける度、藤堂の心はどうしようもない悲しみに襲われた。
 能代彩香は、上杉と同じくエルミン学園の同級生だった。個性豊かな生徒が揃ったクラスの中では、比較的地味な女子と言っていいだろう。その地味さ、普通さが、藤堂の物静かさと相通じるところがあった。
 特別な共通点があったわけでもなければ、交流が多くあったわけでもない。ただ、ふと共に過ごす機会があったとき、沈黙が心地よいと感じられるような相手だった。
 能代彩香に抱いていた安らぎこそが、藤堂尚也の初恋だった。
 そう気がついたのは、人ならざる力をもって厳しい戦いをくぐり抜け、異変の消えた町へと帰ってきた直後のことだ。
 藤堂たちの戦いの裏で惨劇に巻き込まれ、既に物言わぬ肉体となっていた彼女を見て、冷たい頬に触れて、その死を確認して――そこに至って、ようやく初めて自覚した想いだった。



「藤堂」
 落ち着き払った声は、目覚めにはちょうどいい低さだ。
 意識を取り戻し、見慣れない天井を眺めたままだった藤堂は、声が聞こえた方向へ首を動かした。
「気分はどうだ。医師を呼ぶか?」
 普段と変わらない仏頂面は、しかしいくらか普段よりも安堵の色が強い。いや、と首を振って見せると、その色はより濃いものとなった。
「御影町を救った男が倒れるとはな……まったく、自己管理のなっていない証拠だぞ」
 あまり険のない文句を言いながら、部屋にいた少年――南条圭が、小気味のいい音を立ててアイボリー色のカーテンを開ける。藤堂はそれを機にゆっくりと体を起こし、開かれた窓を見た。窓枠の向こうに見える青空は、夕刻に近い色になっている。ここが御影病院で、自分が倒れて運ばれたというのは察したが、何がどうなったのか、どれほど眠っていたのかが藤堂にはわからなかった。
「午前中、ゲームセンターにいた記憶はあるな?」
 表情から疑問を感じ取ったのだろう。南条はやおら両腕を体の前で組み、問いかけるより前に切り出した。
「ああ、両替しようとしたのも覚えている」
「うむ。上杉の話によれば、両替を終えたとほぼ同時に気を失ったそうだ」
「上杉――上杉はどうした?」
 名前が出て、藤堂は身をやや乗り出した。
 上杉秀彦という少年は、常日頃見せている軽薄紙一重の明るい態度や洒落た外見とは裏腹に、内面はひどくナイーブだ。目の前で自身が倒れてしまったことで、ずいぶんと気を揉んだに違いない。
「上杉の奴……お前が倒れたのを見て、ずいぶんと錯乱したらしくてな」
 頭によぎった憂慮はやはり想像通りではあったが、意外にも南条は笑いをこらえるようにして微笑んだ。
「なぜか、お前を背負ってエルミンまで走ってきた」
「……ん?」
 言われた意味がわからず、自然と首が傾いた。
 聞けば、上杉は救急車を呼ぼうという店員の申し出を断り、倒れた親友を背負い、聖エルミン学園まで駆けてきたのだと言う。確かに、彼の足の速さは仲間の中でも目を見張るものはあるのだが――この猛暑の中、何も御影病院とは真逆の方向に走らなくても良いのではないだろうか。
 そして、偶然にも用事で学園に来ていた南条がそれを目撃し、上杉とは比ぶべくもない冷静さで手際よく指示を出し、藤堂は無事に御影病院へと転送された、ということだった。
 付き添いで同乗した救急車の中、南条に一喝されて我に返った上杉が医師に状態を説明。先ほどまでこの病室にいたが、現在は聖エルミン学園に状況を説明するために公衆電話コーナーにいると言う。
「そうか……色々と悪かったな」
「構わん。その場にいようがいなかろうが、お前が倒れたと聞けば俺たちは駆けつける」
 言い終えた後になって気恥ずかしい言葉だったと思ったのか、南条がこほん、と一度咳払いを挟んでから続けた。
「それで、お前の容態についてだが。医師の見解では、自律神経がやや不安定なのではと言っていた。あとは目の下にクマができていることを見るに、睡眠不足も確実に関係しているだろう。……まさか自覚していなかったのではあるまいな?」
 説明を聞きながら、ほぼ無意識に目元へ手を伸ばすと、南条からはいささか怪訝な視線を感じる。こういうときの彼には、大抵の場合どう答えても小言を食うのが通例だ。実際、自覚など皆無だった藤堂は苦笑いのような顔で、答えを曖昧に濁した。
「……まあいい。幸い、軽い睡眠薬を服用する程度で構わんらしい。目が覚めて、特にめまいや体調不良がないようであれば、このまま帰ってもいいそうだが」
 どうする、と目線が問いかけてきている。藤堂は悩む素振りひとつ見せず、力強くうなずいてベッドから下りる。
「うちの車で送ってやろう。上杉のことも含めて手配はこちらがしておく、お前は帰りの手続きや支度をしておけ」
 藤堂はありがたい申し出を素直に受けることにして、礼を言う。それに軽くうなずいた南条は、ドアを出る寸前で級友を振り返り――無表情で眼鏡の縁を持ち上げ、そのまま病室を出て行った。



 当時、彼女の遺体は、学園近くの道路に転がっていた。
 無造作にうち捨てられた肉体は、壊れた玩具のようだった。その有様からは、生命に一切の敬意など感じられない。比喩としても、比喩としてでなくとも、完全に悪魔の所業であった。
 あの日から藤堂が通ることを避けていた、その場所の近くで――それまで黙っていた南条が、声を発した。
「車を止めてくれ」
 突然の指示にも関わらず、車は慌てることもなく静かに止まった。助手席にいた松岡が後ろを振り返り、同じく、後部座席に座っていた藤堂も隣にいる南条に目を向ける。
「いかがなさいましたか、圭様」
 松岡は、セベク・スキャンダルの中で命を落とした山岡老人の後、南条の目付け役を引き継いだ男だった。家族同然で南条に接してきた山岡老人とは異なり、善かれ悪しかれ南条グループの次期総帥として南条に対して厳格な態度を貫いている。
「松岡、少し外してくれるか。ここで藤堂と話がしたい」
 屈強な外見と鋭い眼差しに物怖じもせず、南条は松岡をしっかりと見返す。二人はしばしの間沈黙を保ち、そしてやがて松岡が浅く息を吐き、運転手に目配せをした。
「二十分ほどで戻ります。それでよろしいですね?」
「ああ、すまんな」
 両側のフロントドアがほぼ同時に開く。ヒグラシの鳴き声が聞こえたかと思うと、ドアが閉じられたと同時に車内に静寂が戻る。そうして、あまり表情のない南条と、表情にこそ出てはいないものの状況の飲み込めない藤堂が残された。
 閉鎖された空間の中で、少しの沈黙を置いた南条が、日々の多くを不機嫌そうに曲げている唇を開く。
能代彩香」と。ただ、そう一言、この場所で死んだ少女の名を告げた。
「……ッ」
 ドクン、と、藤堂の心臓が大きく跳ね、呑んだのか吐いたのかわからない呼吸が、静寂の中で小さく音を立てる。
 普通の人間ならば見過ごしたかもしれない。だが、聡明な南条にはその反応だけで十分だった。
「やはりそうか。藤堂、お前は――彼女の死を受け止めきれていないのだな」
 南条の言葉が、藤堂の頭の中を大音量で反響する。
「そんな……そんなこと、は」
 ない、と言い切る前に、視界が強く明滅し始めた。胃から不快感がせり上がり、体のあちこちに脂汗が浮かぶ。思わず片手で目元を覆い、下を向く。
 暗闇に火花が弾けているような目の前を、能代彩香の死に顔がちらついた。
 彼女はおそらく事件の最初のうちに悪魔と遭遇したのだろう。遺体は冷え切って硬直しており、割れた腹からこぼれた臓物は、時間経過ゆえに多少の乾燥をし始めていた。彼女自身から流れ出た血で染め上げられた肉体には、いくらかの咬傷も見られた。顔面は血液を失って真っ青になってはいたものの、わずかな擦り傷以外に損傷はなく、それだけが不幸中の幸いだったと言えた。
 これほど鮮明に覚えていて、これほど克明に思い出せるというのに。あれから季節もいくつか過ぎたというのに。それでも、まだ、自分は彼女の死を受け止めきれていないのだろうか。
 藤堂は、吐き気や嗚咽をこらえるようにして、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「今、お前が話しているのは、“能代彩香の死に様”のことだろう」
 南条は、それを一蹴する。
 彼女の遺体を発見したとき、藤堂は南条、稲葉とともに行動していた。悪魔の生き残りや救助の必要な人間はいないかと、手分けして町を見回りしようと体育館裏にある塀の穴から出てすぐのことだった。
 だから南条は、能代彩香の遺体を発見したときのことを知っていた。そして、よく覚えていた。
 忘れられるはずもない。
 遺体を発見した瞬間の彼は、御影病院で家族よりも愛しい老人を失った南条自身と、まったく同じ顔をしていたのだ。
「確かに彼女の死は惨く、悲しいものだった。同級生でありながらもほぼ交流のなかった俺ですら憤りを覚えるほどにな。だが、お前は能代と交流があったはずだ」
 だからこそ自分こそが言わねばならないと、南条は心に決めていた。
「その貴様が、なぜ“彼女の生き様”に目を向けてやらん」
 内からにじみ出るような怒りのこもった一言は、あの日からずっと複雑な気持ちを抱えていた胸を突き刺した。藤堂は弾かれたように面を上げる。
「俺はいまだに、あの病院へ行くのは好かん。山岡の死を受け入れ、乗り越えたつもりでも、やはり院内に入れば嫌でも苦しみを思い出す。……それでも俺は、教えてもらったことや与えてくれたものを無駄にはできん。それこそが山岡の生きた証だからな。だから俺は、山岡に誓った理想を貫く。それが俺の……もらった愛情に対する恩返しだ」
 細い縁の眼鏡の奥。一度遠い空へと向いた南条の瞳が、語るにつれて柔らかくなっていく。その焦点が、藤堂の中性的な顔にぴたりと合わせられた。
「お前はどうだ。能代との思い出はないのか? お前の知る、能代彩香が生きた証はないのか?」
 南条が息を吸う。そして藤堂は、息を止めた。
「それを胸に、お前は生きていこうと思わないのか?」
 ああ……、という、ため息のような声が薄く開いた唇からこぼれる。
 まるで、歩みを止めていた背を強く叩かれ、無理やり前に押し出されたようだった。自分は、ただ止めた時間の中に立ち尽くしていただけだったのだ。
「藤堂……俺は、いまだに他人の心の機微に疎く、これをお前に伝えることの善し悪しがわからん。だが、お前に覚悟があるのなら知っておくべきだろう」
 お前が決めてくれと言いながら、南条は車を降りた。
 藤堂が深呼吸をひとつし、追いかけるようにして夏の夕暮れ空の下へ降り立つ。そして、能代彩香が最期を迎えていた場所で仁王立ちをしている南条の隣に向かう。
 それが、藤堂の返事だった。
 南条は顔を真正面に向けたまま、口を開く。
能代は、お前に異性としての好意を抱いていたそうだ」
 自分が世界から締め出されたのか、自分が世界からすべてを締め出したのか。ほんの一瞬、藤堂の世界から、音が失われたような気がした。
 南条が話し続けている声が届かない。あれほど聞こえていたヒグラシの鳴き声がわからない。
 しかし、その事実に受けた衝撃は、確かに喜びだった。こみ上げてくるかすかな幸せを無音の中で噛み締めながら、藤堂は瞳を閉じる。
「俺も……能代が好きだった」
 想いを絞り出した途端、閉じた目尻に熱が帯びる。そっと目を開けて、彼女が死を迎えた場所をまっすぐに見つめた。
「……そうか」
 世界に音が戻る。止まっていた時間が動き出す。
 隣の南条の声は柔らかく、ヒグラシの鳴き声は物悲しくも澄んでいる。広い夕空に一匹のトンボの影がくっきりと映え、足元には誰かが手向けた白い花が置かれていた。
 友情も、音も、空も、花も。傍にある当たり前のものを確かに感じ取ることのできる心が、藤堂の中に急激によみがえっていく。
 世界は、彼女を失っても――心通わせた人を失っても、なお美しいものだと思い知る。
 こぼれていく涙を堪えようとは、思わなかった。



 涙はしばらくさめざめと流れていたが、程なくして止まった。力強さを取り戻した藤堂の瞳には、夕焼けで茜色に染まった白い花が映っている。最後に深呼吸のように深く息を吐くと、黙して様子を見守ってくれていた南条へ体の正面を向け、まっすぐ目を見た。
「ありがとうな、南条」
 南条もまた藤堂へ向き直り、しっかりとうなずく。
「お前は俺の認めた男だからな、立ち直ってもらわねば張り合いがなくなってしまう」
 曇りのない笑顔を浮かべた直後、「大体、だ」と言いながら徐々にいつもの不機嫌な顔へ戻っていく。
「朝からゲームセンターに入り浸るとは不健康に過ぎる! いいか藤堂、健康な肉体に健康な精神は宿るものだ。娯楽も息抜きも時には必要だが、青少年たるもの健全でなくてはならん!」
 あの表情からおそらく説教をされるだろうとは予想していたが、想像以上に耳の痛い内容だった。
 元々ゲームが好きだったとはいえ、能代彩香の死から目を背けるようにゲームセンターへ通っていたのは事実だ。今にして思えば、特に約束を交わしたわけでもない上杉がゲームセンターに訪れていたのも、それを心配してのことだったのかもしれない。
 ともかくも、藤堂には弁解の余地などない。できるのはただ、嵐が通り過ぎるまで素直に話を聞くだけである。
「圭様、戻りました。お話はお済みになられましたか?」
 長話を聞いているうちに、松岡と運転手が帰ってくる。南条はまだ言い足りなさそうな顔をしていたが、不承不承といった様子で「ああ、もう済んだ。すまなかったな」と返事をする。
「松岡さん、お時間いただいてすみませんでした。ありがとうございます」
 続いて礼を言う藤堂を、松岡は黙ったまま見据えた。しばらくまじろぎもせずにそうした後、ほんのわずかに強面を和らげ、そのまま車の助手席へ向かう。
「――先ほどよりも、いいお顔になられた」
 助手席に乗り込む直前、聞こえた松岡の声はやはり穏やかだった。藤堂は一呼吸置いてからもう一度頭を下げた。
 松岡の後ろ、先に後部座席に座っていた南条が窓を開けて顔を見せる。乗れ、ということなのだろう。その心遣いに、藤堂は少し悩んでから首を振った。
「悪い、このまま……歩いて帰らせてくれないか?」
 そう申し出た藤堂を矯めつ眇めつ眺める南条は、険しい顔をしている。
 心身ともに心配をされていることはわかった。けれど、このままもう少しだけ、彼女のことを想っていたかった。
「まったくお前は無理を言い出す……。まだ体調は万全ではないのだぞ、あまり家族や周囲に心配をかけるな」
 ぶつぶつと言いながら、南条は窓から少ない荷物を差し出した。
「南条、もう大丈夫だ」
 それを受け取って、藤堂が含みを持って告げる。南条は拗ねたように口をへの字に曲げ、腕を組んだ。
「……わかっている。そうでなければ、今頃お前を引きずってでも車に乗せている」
「それじゃただの誘拐じゃないか?」
「失礼な、人助けだ」
 南条がいっそ不敵な顔で肩をすくめると、藤堂は心底楽しそうに微笑む。それを確認すると、南条も嬉しそうに口元をほころばせたまま車を出発させるように指示を出した。
 片手を上げて車の後ろ姿を見送る藤堂は、心底晴れやかな表情をしていた。あの日以来の、実に久方ぶりに浮かべた心からの微笑みだった。
 車が走り去った後、献げられた花を一瞥し、澄んだ眼差しをまっすぐな道路の向こう側へと向ける。
 一度だけ、在りし日の彼女とともにこの道を歩いたことがあった。
 藤堂が、珍しく業務の多い日に日直当番となってしまった。しかしパートナーの女子生徒が運動部で、大会を控えているという大事な時期だった。帰宅部の藤堂が一人で業務を請け負い、放課後で残っていたところを能代彩香が手伝いに来てくれた。
 日直業務を終えた二人は、今は塞がれてしまった体育館裏の穴からこっそりと抜け出て、塀沿いのアスファルトの上を歩いて帰った。それが、学外における彼女との唯一の思い出だった。
 その道筋をゆっくりと辿っていく。
 季節の香り、空模様、話した内容、並んだ距離。辿りながら少しずつ紐解かれていく記憶を噛み締め、心に仕舞い込む。
 思い出に浸って歩く藤堂の涙の跡を、ふと強めの生ぬるい風が撫でていく。昼間の熱を残すアスファルトの路面を駆け抜けていく風下には、夕暮れの中で能代彩香と別れた曲がり角があった。
 そこを視界に入れた瞬間――かつての風景が、五感をともなって脳裏に映し出される。
 あのとき彼女は、この曲がり角を前にした途端、わずかに跳ねるような足取りで数歩前に出た。それからくるりと楽しげに自分へ向き直って控えめに片手を振りながら、夕暮れに照らされた赤い頬に笑みを乗せた。
「バイバイ、藤堂くん」
 もう見ることの叶わないその表情は――けれど、あの日から思い出すことのできなかった笑顔の記憶だった。
「ああ、そうだ……俺は……」
 よみがえった記憶が、当時の感情をも鮮明に思い出させる。
 夏の帰り道、ただ肩を並べて歩くだけのことに、どれほど胸が高鳴ったか。分かれ道に立ったとき、彼女との別れへの名残惜しさに、手を振り返すことができなかったことも。
能代が……好きだった」
 改めて気づいた想いが口からこぼれ落ちる。それは、先ほど南条に伝えたものと同じだったが、今度はそのときよりもはるかに柔らかく響いた。
 この恋は、彼女という存在が手の届くところから消えてしまってから初めて自覚したものだった。しかし自分は、生前から彼女のことが確かに愛しく思っていたのだ。
 そして、他界してしまった今でも。今、この瞬間も。
「……君が、好きだ」
 告白は、仰ぎ見た夏の美しい夕焼け空へと――。
 恋しい人は死に、その悲しみはまだ癒えない。それでも傷の痛みはいつか薄れていくのだろう。だとすれば、彼女を失った痛みと向き合う第一歩が今日、まさに今だ。
 誰もいない曲がり角の向こう側へひとり静かに手を振って、自分の行くべき道を歩き出す。
 心の中の少女は、笑顔だった。

キミと歩いたアスファルト :2017/10/09
タイトルはTwitterのフォロワーさんより。感謝!
back page