殺されるよりも
もしもあの銃にレーザーサイトが取り付けられていたなら、光線は間違いなく私の額にあったのだろう。
「さて、最後に言い残すことがあれば聞いてやろう。言いたまえ」
一歩、また一歩とゆるやかに近づきながら、神取支社長は口の端を吊り上げた。
「……では、なぜ私を、と問いかけてもいいですか」
「なぜ、か……。では逆に問うが、君だけが、私に殺されないとでも思っていたのかね?」
“裏の”秘書である私は、彼のこうした不条理な殺人を見知っていたし、今更懐から取り出された短銃に驚くようなことはない。その照準が自らに向けられる日が来るかもしれないとも、多少なりは想定してきた。
ただ、それでも。やはり死の淵に立ったからには、自分が死ぬ理由くらいは訊いてみたかった。
「いいえ。だからこそ、なにゆえに殺されるのか、と」
まっすぐに、私の額を撃ち抜くために持ち上げた右腕を微動だにさせることなく、支社長は吐息で笑う。
「そうだな、強いて言えば……優秀すぎた。君は私にとって懸念材料にもなりかねん」
「私が、貴方を裏切るとお思いなのでしょうか?」
「そうは言っておらんよ。だが、例え君が本意でなくとも、君の身柄が私の元から奪われ、その勤勉な心身を利用されないとも限らない」
――なんて。なんて哀れな人なのか、この人は。
もし今の言葉が、皮肉に塗り固められた中の本音なのだとしたら、彼は彼自身が抱いた信頼ですら信じられないような人だということだ。
「ゆえに、君は私に殺される。……さて、他に言うべきことは?」
「……それでは、お願いが二つ」
沈黙は、おそらく許可の意味。
静けさの中、かちん、かちん、という音が耳に届く。聞き慣れたそれは、彼の左ポケットで鳴らされた二つの金属球がかち合う音色だ。ほんのわずかな間、その金属音を聞きながら少し息を整える。
「一つめは、もし後任の秘書を雇うのでしたら、女性、もしくは、私より頭のいい方は避けてほしいなというお願いです」
よほど意外だったのか、支社長がかすかに目を見開く。それから切れ長の両眼はゆっくりまたたいて、愉快そうな弧を描いた。
「いわゆる嫉妬というやつかね」
「ええ、そうです」
否定する気こそないが、こんな形で気持ちを伝えることになるとは思いもしなかった。それでも、死ぬまでに伝えられたというのは、幸せだったのかもしれない。
たぶん、こんなことでもなければ、墓場まで持って行ったはずの想いだ。
「他でもない君の遺言だからな、善処はしよう。さて、もう一つも聞いておこうか」
「……その引き鉄を引くのを、3分だけお待ちください」
「この瞬間から3分。それでいいのだな?」
はい、と事務的に返事をする。
これで、私の命は3分しか残されてはいない。それだけあれば、十分だろう。スーツのジャケットの、内ポケット。裏地を見せるようにして中身を取り出した私は、それが何であるか、彼が理解する前に口に放り込み、飲み下した。
「今のは――」
彼の疑問は、他でもない私のうめき声がかき消した。
全身へ急速に毒が巡る。膝が崩れ、全身の毛穴から汗が吹き出た。舌が、喉が、肺が、胃が、熱く焼ける。目が、指が、肉が、五臓六腑が、痛みに震える。
――たった3分間。
私の命の灯火が高らかに燃える短いこの時間に知ればいい。
あなたを裏切らないこと。
あなたを愛していたこと。
その、すべての覚悟をもって、私が自ら命を絶つこと。
「なぜ、お前は……」
右手に構えていたはずの銃が固い床に落ちた音を、私は遠くで聞いていた。
もう、目は見えない。感覚もほとんどない。ただ、支社長の香りと温もりが近くに感じる。抱き留められているような気がするのは、私の浅ましい願望なのだろうか。
「これ、で……身も心も、ぜんぶあなたに、ささ、げ、られ……」
焼けた喉では満足な声も出ず、言い切ることもできないまま、全身から力が抜ける。
私の命が潰える瞬間が来たのだ。
けれど構わない。この3分という時間だけは、彼の心を奪っただろう。目の前の女一匹、殺すことができなかったという汚点を彼に残して、私は死にゆく。
さようなら、私の愛した人。
願わくば、最期に聞こえたあなたの吐息に含まれた悲しみや寂しさが、私の思い過ごしでありませんように。
ワルアガキス・マイト
放課後、校門近くで見つけた、少し猫背の後ろ姿。一目見てわかる背中を追いかけて名前を呼べば、稲葉くんは気だるそうに振り返った。垂れ目がちな両目は私を見て一度ぱっと開かれ、すぐ細まる。それから大きく口を開けて笑った。
「おー、どーしたよ、そんなに慌てて」
「こ、れ……きょ、しつ、で」
恥ずかしながら、私は運動が大の苦手だ。教室から校門までの短い距離で呼吸がひどく乱れてしまって、言葉よりもゼエゼエという音の方が大きく響いている。
「あ?」
不思議そうに首をかしげている姿は、私が伝えたいと思っている内容がまったく理解されていないことを如実に表している。
百聞は一見に如かず、とは言っても、これほど整っていない呼吸では、百聞も何もあったものではないだろうけど――ともあれ言葉で説明するより、見せる方がスムーズに伝わりそうで、制服のポケットから取り出した携帯のストラップを見せた。稲葉くんは、ああ、と納得した声を出す。実は昼間に彼が落としたと探していたものを、さっき片付けをしていたときに見つけたのだった。
「ンな息切らして追いかけてこなくても、別にガッコで渡してくれりゃいいのによォ。おめー今日日直だったろ?」
「うん……そう、なんだけど……」
あ、少し呼吸が楽になってきた。
そう、彼の言う通り、日直の業務を一旦止めてきた。でも明日からは週末で、月曜日まで顔を合わさない。だからちょっとでも早く渡してあげたくて、ここまで走ってきたのだ。「はい」と渡すと、稲葉くんは指先でつまみ上げるみたいにして宙でプラプラと揺らして見せた。
「これよー、アイツらとゲーセンで取ってさ、一応オソロってやつ。ダッセーよなー」
悪態をつきながら、はにかみながら、けれど、とても誇らしげにストラップを見つめる瞳が、ふとこちらを見て嬉しそうに和らいだ。
「けどよ、すっげー大事にしてんだ。だから、……ありがとな」
急に胸をぎゅうっと締めつけられて、急に強く何かに背を押されて、二歩ほど稲葉くんの側に駆け寄ると――衝動的に、私は彼に口づけていた。
「んな……っ?!」
本当にただ触れただけの、キス。
稲葉くんは、私よりもはるかに乙女のように慌てて、顔を真っ赤に染めている。
「な、なななななな、なんっ……おめー、今、何で、なな、な」
「嫌だった……?」
「べっ、つに、イヤじゃ、ねーけどさ! いや、でも……いや、やっぱり、イヤじゃねーけど! ただ、何で、くれーは思うだろフツー……」
いつも実直な稲葉くんの眼差しが、見てわかるくらいハテナマークでいっぱいになっている。私は、本当はすごく暴れ回っている自分の鼓動を堪えて、彼を見つめた。
「……私、稲葉くんのこと、すごく好きだなあって。わかってたけど、改めてそう思ったから」
好きだから、ここまで追いかけてきた。好きだから、キスをした。
「けど、オレ、」
「うん、知ってる。でもね」
彼に大切な仲間がいることも、好きな人がいることも。それが私でないことも知っている。私がそれになれないこともわかってる。
だからこれは単なるわがままと、ほんのちょっとの意地悪と――
「あなたにファーストキス、あげたくなったんだもん」
そのストラップを見たときに、時々は私のことを思い出してもらえるようにっていう、人生一度きりのキスを引き換えにした、悪あがきのおまじない。
移り香
木陰に沈むベンチへ座り、徐々に強まる初夏の日差しを防ぐために被ってきた帽子を脱いだ。瞬間、ツンと煙草の脂の香りがして、彼の傍にいられる実感に思わずにやにやしてしまう。同じ屋根の下に住めば、シャンプーの香りが一緒になるなんてことはよくある話だけど、煙草の香りはシャンプーよりももっと彼に近いものだから、どうしようもなく堪らなくなって、私は帽子をぎゅっと抱きしめる。そんなことをしていると「何やってんだお前……」という呆れた声とともに、海外製の煙草の煙がゆらりと流れてきた。ああ、この香りが、この人が、今の私を包んでいるんだ。それはとても幸せなことだな、なんて思ったら、私の口元はまたちょっとだらしなく緩んでしまった。