そしてそれは、本来ならば自分が発する音であったはずで、本来ならば“人ではないもの”が発した音であった。
数瞬遅れて振り向いたその場所で、“人の形をした魔族”が、その腹に穴を開けていた。比喩でも何でもなく、彼の腹部には風穴が、無が、あった。
反射的に呼ぼうとした名前は、喉からうまく出てこなかった。舌の上をかすかに吐息が通っただけだ。自分よりもはるかに、目の前の――つい先ほどまで自分が立っていた場所の――魔族の方がうめき声を上げていた。
「ああ……リナさ、ん……お元気、そう、で」
苦痛で途切れる声を聞いて、リナはすぐさま常に近しい冷静さを取り戻した。
「大丈夫よ。あんたもあたしも、まだ“人の形を保ててる”わ」
気丈に言い切れば、彼の表情はいつもの微笑に近づいた。その身体を無理やり肩から背負い、周囲に気を張り巡らせる。
今、天下のリナ=インバースが取るべき道は、ひとつだった。
追っ手は、今のところはいないようだった。
全速力で森の中を逃げた先で、簡単な結界を張った。とはいえ、とリナは横たえた魔族――ゼロスを見下ろす。
「ゼロス、無事なの?」
まあなんとか、とのんびり答えるゼロスの腹に空いた穴の面積は、先ほどより幾分か狭まっただろうか。確かに生気とともに顕現力を取り戻しているようだった。
人間が住んでいるこちらの世界において、魔族は物理的な肉体を得る。だが、ダメージを与えるためには精霊魔術のような物理以外の力が必要となる。つまり、それだけ上位の力がなければ、傷ひとつつけることができない。
ゼロスほどの高位魔族にここまでの深い傷を負わせるとなれば、相手はかなりの実力者だ。人間かどうかすら怪しい。
リナとしては尻を蹴り飛ばしてでも早く回復してもらって、この気休め程度の結界を離れて対策のひとつでも練りたいところだったが、魔族とは言え手負いである。さすがに急かすわけにもいかず、隣に腰を下ろす。
本音を言えば、心配で仕方がなかった。
そして、それ以上に、なぜ、という疑問が頭をぐるぐると回っている。
ほぼ無意識に、胸元の呪符に指を滑らせる。血色の玉石はひんやりとしていた。
「……どうしてあたしなんかを庇ったのよ」
しばしの沈黙の後に出た言葉は、いささか拗ねたような響きを伴った。
リナのような魔道士は、その魔族から力を拝借して魔法を使用する。ゆえに、魔族の性質も理解しているつもりだった。
彼らは、破壊によって呼び起こす負の感情を糧として生き、人間が持つ慈愛や哀悼のような精神や感情はない。
ならば――なぜ、自分はこの魔族に救われてしまったのか。
「それは……」
元より答えが返ってくるとは思っていなかったが、ゼロスの口から出た言葉に、リナは落胆を禁じえなかった。
それは秘密です、というのが、彼の口癖のようなものだった。この魔族は、軽い調子で放つその言葉で、肝心なことをうやむやにしてしまう。
「いいわよ、どうせ気まぐれでしょ。聞いたあたしがバカだったわ」
今の問いも、そうして宙ぶらりんにされてしまうのだと思うと、拗ねた響きはますます強くなった。ため息ひとつ吐き出して、立ち上がろうとする。
そのリナの手首を、ゼロスがぎゅ、と捕まえた。掴まれた場所で鳴っていた脈が、早くなっていく。
「――それは、あなたが僕の隣にいるからです」
思いのほか優しい声に、手を振りほどくことすら思い浮かばない。
「こちらの世界での居場所は、あなたの隣がいいんです。だから……その場所が無くならないようにと思っただけです」
確かにゼロスは、様々な物事を煙に巻いて曖昧にすることはあったが、およそ嘘はつかない男だ。その彼が、怪我をしているとは思えないほど穏やかに微笑んで言った言葉は、リナに脳天を撃ち抜くような衝撃をもたらしめた。
「っ……!」
飛び退かん勢いで手首を引き剥がし、栗色の髪をくしゃりと握りしめる。
天下のリナ=インバースも、こと色恋沙汰に関しては実に奥手である。開放されたはずの手首から広がる熱に耐え切れるわけもなく、初心な少女らしく顔をかあと赤く染めた――が。
「顔が赤いですよ、リナさん」
片目を薄く開いて追撃をかけてきた魔族に、天才魔道士は手加減なしの肘鉄をお見舞いしたのだった。
人でないものの肉が断たれる音を聞いた。人でないものの骨が砕かれる音を聞いた。
ぽっかりと空いた穴から血は流れていなかったが、人でないものの胸には、人のような充足感がほんのわずかに残った。
――同じく、人にも。