1


 しん、と静まり返った様が、海溝の底を思わせた。
 ここは、死の淵を越えた先にある空間。五感の何一つも働くことのない、生命の終着点。常しえの闇。果てのない無。
 その場所で、男の潜在意識は、死後なお生きていた。
 通常の人間ならば、潜在だろうが顕在だろうが、意識などはここへ到達した時点で霧散し、人類の総意の一部と成り果てる。だが、一時は神になりかけた彼の所業は解脱に等しく、その魂は人間としての輪廻転生の道からは少しばかり外れることになったのだった。
 ゆえに、この――普遍的無意識の領域に、超意識として生き長らえていたのである。
「ご機嫌はいかがかな、神取鷹久」
 唐突に響いた声は、鼓膜が捉えた音ではない。もし肉体があったのならば、脳に直接届いてるような感覚だろうか。初めて行われる超意識同士の伝達は、神取をいささか妙な気分にさせた。
「人間の言い方ならば、久しい、とでも言うところか」
「ここでは時間などありはしない。正しく言うのならば、私の意識と肉体を乗っ取って以来だろう。――ニャルラトホテプ」
 名を呼ばれた邪神が、喉の奥を震わせたような音を立てる。
「それで、何の用向きだ。よもや様子を見に来ただけではあるまい?」
「『外』に出してやろうと思ってな。ここは退屈だろう?」
 その声は、幾重にも重なって聞こえる。千の貌を持つ神の名に相応しく、女のようにも、男のようにも、子どものようにも、老人のようにも――他人の声にも、よく知った人間の声にも、あらゆる響きを内包し、神取の感情をわずかに乱す。
「私が存外ここを気に入っていると言えば、どうする」
「なに、拒みたくば拒むがいい。この領域では、
私がそうしようと思えば
それは現実となる
。貴様はただ、抗うことのできぬ運命を知るだけのことだ」
 今度こそ確かな笑い声を残すと、邪神はそれきり何らの気配も感じさせなくなった。おそらくは用件を伝え終え、この普遍的無意識の領域からはいなくなったのだろう。
 再びの静謐の中、神取は今の言葉がどういう意味かと考え巡らせようとした、刹那。
「くっ?! うお、おおおお、おおああああッ!」
 突如として現れた夥しい光が、自身を包んだ。
 その光は視覚で得たものではない。意識を塗り潰すように侵食し、死んでから辿ってきた道を、全ての理を無視して強制的に遡行させる。
 奪われていく意識と反対に、まず痛覚を取り戻し、五感の一つ一つを思い出していく。
 光の濁流に呑まれ、千々に千切れる意識の片隅で――神取は、さっき聞こえた邪神の笑い声が、かつての自分のものと酷似していたことにふと思い当たり、そして、そのまま意識を手放した現世に蘇った


2


 水平に寝かされた身体は大きくたゆたっている、ような気がする。
 自身の意識が、一度は死んだ肉体の内側に馴染んでいくのを感じた神取は、ごく浅い深呼吸をして、肺機能が活動していることを確かめた。しかし、ただの呼吸だけでも身体は軋み、うまくいかない。まるで油切れを起こしたブリキの人形のようだ。もしも周囲の状況がわかっていれば、自嘲の笑いでも零しているところだった。
 そう、神取には自身の置かれている状況がわからなかった。
 火が焚かれているのだろう。燃える音と、木の弾ける音がする。数名の衣擦れ、いささか興奮気味な息遣い、誰かが唾を飲み込んだ音も聞こえる。
 覚醒してからずっと感じている揺れのせいで、もしや生前の戦闘で内耳神経が損傷でもしたのかと疑ったが、どうやらここが船の上なのではないか、という仮説に辿り着いた。
 聴覚だけではない。少しずつ、確実に、五感は現世と繋がっていく。
 辺りに漂う焼けた香りが、嗅覚の戻りを示した。
 続いて、触覚。熱風が身体の片側に揺らぎながら当たっている。燃え方や熱風の量から察するに、小さな火ではないのかもしれない。おそらく護摩壇が近くにあるのだろうと確信を得る。
 それから多少の時間はかかったが、自身の感覚や脳が正常に働いていることは確認できた。
 残すは、視覚だ。触覚を取り戻して理解したことだが、どうやら目隠しをされているらしい。何のためかまではわからなかったが、薄い布で覆われる程度のものだ。反射的に――とは言っても、ブリキの人形じみた今の自分では遅い動きしかできないのだが――目隠しを取ろうと手を伸ばしたところで、
「やめておきたまえ。その目は、人目に晒すにはそぐわぬだろうて」
 老人の声に、制止された。
 貫禄のあるそれに、神取は聞き覚えがあった。目を晒すな、と言われた意味はわかりかねたが、ひとまず手を止め、軋む上半身をゆっくりと起こす。すると少し離れた位置で、小さなどよめきが上がった。声質からして、どうやらこの場所には、そう若くない人間の小集団がいるらしい。そして、その中でも一番近い位置にいるのは、今しがた話しかけてきた老人だ。
「御前の言霊にて常世より蘇りし魂よ、己が名を告げ、いま一度現世に楔を打ち込むがいい」
 この声の主が、小集団のリーダー格なのだろう。視界を奪われている現状では、ひとまず従うのが得策だと判断し、乾き切った口を開いた。
「私の名は……神取鷹久」
「よかろう。では、御前のため、ひいては無原罪の世を成し、歴史を創る我ら新世塾のために! かつて生きた名を棄て、新たに名乗りを上げよ!」
 老いてなお野望に燃える声が、空間に響き渡る。
 しばし沈黙を保った神取は、自身の記憶を探った。そして、この老人がとある政治家であること、彼がかつて発見した即身仏のことを思い出し――それが引き金となったのか、突如、
二つの世界
のこと、老人須藤竜蔵御前ニャルラトホテプがそれぞれ描くシナリオ、『特異点』の少年についてなど、あらゆる情報が脳へと流れ込んできた。
 通常の人間ならば耐え切れぬ量の記憶と情報である。だが、既に人間と呼べぬ神取は一瞬でそれらを吸収し、そして、ニャルラトホテプが自身を蘇らせた理由、課せられた役割すら理解する。
 ああ、ならば、多少の面白みには欠けるが、
彼らが自分を見つけやすいように
、この名にしてみようか。
「――神条、久鷹」
 そう名乗った途端、護摩壇の炎がにわかに勢いを増す。まるで手繰り寄せられていく宿命を嘲るようにして、ただ燃え盛った。


3


 岩のすき間から入り込む海水は、死を可視化したものとも言えよう。死は、性急に自身の足元を浸し、空間そのものを満たしていく。
 地球をあまねく駆ける地中エネルギーのことを、風水では龍脈と呼ぶ。世界各地には、龍の膨大なエネルギーを抑制するための十二の封印が存在しており、須藤竜蔵を筆頭幹部とする新世塾は、それを一つずつ解放してきた。
 そして、ここ珠閒瑠湾沖の海底にある遺跡――青龍の封印が最後の封印だった。その最後の一つも、陰陽師の血を引き、望龍術に長けた石神千鶴の手によって封印の石柱は破壊され、既に龍脈の解放を終えた後だ。
 通常であれば、龍脈を解放したところですぐさま人類が滅亡するということはない。疫病が起こり、天災が増え、国と国同士の戦争が始まり、人類が気づかぬうちに破滅の一途を辿っていく。
 だが、ニャルラトホテプの力によって異界化し、言霊が圧倒的な力を持つ珠閒瑠市においては、そのような長期的な展望など必要ない。言霊の力――悪意なき人々の口伝によって伝染していく負の感情が、破滅に拍車をかける。あとは誰かがドミノの一つ目を指先でそっと倒すだけで、勝手に自滅していくはずだ。
 そうやって人類自身の手によってもたらされる悲劇の終末こそが、人類の総意のネガティブマインドを司るニャルラトホテプの悦びたりうる。
 そのことを知るのは、ニャルラトホテプと、その邪神の手引きを知る
この世界の人間ならざる
二人の男のみ――。
 だから、須藤竜蔵は知らないのだ。
 御前と崇めるその即身仏の与える啓示が、ニャルラトホテプの甘言であることを。その言葉が無原罪など目指してはいないことを。そして、竜蔵自身もまた、ただの駒でしかないことを。
 死の水位は、なお上がり続けている。水流に勢いがある分、もう立っていられる時間は短いだろう。足を取られれば、あとは一瞬だ。
 神取は天井の岩のすき間から流れ落ちてくる海水を見上げ、鼻白む。
 今頃、竜蔵はおそらく、我々を体よく利用して捨てたとでも思っているのだろうなと考えると、愉快でならなかった。無知とは罪である。近々、竜蔵は何も知らぬまま無惨に捨てられ、絶望するのだろう。
 人の上に立ち、人を切り捨てる側であった自身が、あの程度の老人に使われるというのはあまり気分のいいものではなかった。だが神取に、不満はなかった。全てのからくりを知り、知った上で悪を成したからだ。
 何よりも、最後に――希望の光を見届けた。
 影の役割の中で、抗えずに立たされ続けた立ち位置の中で、わずかな光を、確かに見たのだ。
 彼らならば、竜蔵の狂気を阻むだろう。邪神の野望を砕かんと挑むだろう。それは、神取にとってはいいように使われた報復にも近く、胸のすく想いだった。
 天井の亀裂が水圧に耐えきれず崩壊し、轟音とともに凄まじい量の海水が落ちてくる。
 この肉体は水に呑まれ、すぐに朽ち、また自身の意識は輪廻転生のない狭間に還るのだろう。あの、暗い暗い海溝の底のような場所へ。音のない恒久の闇へ。
 だが、願いは、確かに託した。
 最期に淡く浮かべた微笑みは、神取自身も気づかぬまま、ついに満ちた死へと成すすべなく呑まれていった。
 本来ならばありうるはずのない二度目の生は、決して望んだわけでもなければ、在り方を変えられたわけでもなかったが――それでも、存外にも悪くは、


4


 長い戦いの果てにニャルラトホテプは天野舞耶たちによって倒され、支配力を失った。珠閒瑠市の異界化現象も徐々に失われていき、須藤竜蔵の置き土産でもあった天誅軍もまた、その軍事力を見る間に減退させていった。
 狂信者じみた天誅軍の非道な行いは、人々に不安と絶望を抱かせていた。だが、果敢に立ち向かい続けるペルソナ使いたちや、南条コンツェルンの抱える私兵、政府が派遣した陸自、海自などの姿が勇気を与えた。市民が蜂起すると、弱体化していた天誅軍をあっという間に弾圧したのだった。
 こうして、珠閒瑠市に蠢いていた破滅の触手は消えた。
 誰も認知することのない大きな戦いが終わり、自らの罪を贖い続けた一人の少年が『あちら側』へと帰ってから、少し後――珠閒瑠湾沖合いの洋上を、『1』と大きくペイントされたクルーザーが航走していた。
「本当にここで合っていますの、Kei?」
 減速の末にクルーザーは止まり、桐島が後方の右舷から顔を覗かせた。海中を見ようと、やや切れ長の美しい瞳を細める。
「うむ、座標としては間違いない。先日調べてもらったところ、どうやら形跡すらなかったらしいが」
「Oh dear……あの崩壊では、当然と言えば当然なのでしょうけど……」
 船首でアンカリングを行っていた南条が答えると、桐島の言葉は歯切れが悪くなった。
 ここは、海底遺跡のあったポイントである。南条も、桐島も、その崩壊の場に居合わせていた。自分たちが無事だった奇跡とは裏腹に、あの場所で死を選んだ二人がいたことを思うと、胸中は複雑だった。ましてそれが因縁深い相手なら、なおさらのことだ。
「……ここが、そうなのか?」
 クルーザーが完全に停泊すると、キャビンから真っ先に出てきたのは、城戸だった。
「ああ……ちょうどこの場所だ」
 城戸の問いに南条が頷き、それきり沈黙が訪れる。元々寡黙な城戸と、無駄な話をしない南条という組み合わせではあったが、この沈黙にはそれだけではない重みがあった。
 かつての城戸は、母を捨てた神取家をずっと恨み、復讐のために生きていた。その憎しみは、異母兄である神取鷹久にも例外なく向けられ、三年前にそれは果たされた。しかし、因果の糸は神取を蘇らせた。再び敵として現れた男の、二度目の死に場所となったのが――この海の底だ。
 神取の復活にも、再びの死にも、城戸は多くを語らなかった。だが、皮肉にも兄とよく似たその双眸には、強い悲しみをたたえていた。だからこそ園村が、その遺跡のあった場所に連れて行ってほしいと南条に願い出たのだった。
「わあ、気持ちいいね!」
 その彼女が、キャビンからデッキへ続く階段を上がってきて、思わず歓声をこぼした。手には、大きな白百合の花束を二つ抱えている。
「天気に恵まれてよかったじゃないか。送り甲斐があるってもんだ」
「天候よーし、波よーし! ここでいっちょ、おれ様自慢の古式泳法でも――」
「……勝手にしな。お望みなら、写真に撮って舞耶さんにでもリークしとくよ」
「いや、そこツッコむとこッスよ姉御~!」
 園村に続いて、黛と上杉がそれぞれ花を持ってキャビンから出てきた。
 花の数は、全部で六つ。大きな白百合の花束と、白いカーネーションの入った花かごが三つずつだ。園村が自分の持っていた花束の一つを南条へ。城戸もまた、黛から同じ花束を受け取った。桐島は上杉から花かごを一つ預かり、残りを黛と上杉が一つずつ腕から下げている。
 そうして船べりに並んだ彼らは皆、黒い服に身を包んでいた。
 ――これは、ここで死んだ神取鷹久と、彼とともに死ぬことを選んだ石神千鶴の葬送である。
 しばらくは誰も声を発さず、誰も動かない。遠くで鳴く鴎の声と波音が鎮魂を奏でる中、黛がその均衡を破る。かごの中から一輪ずつ弔花を海へと投げていく。上杉がそれに倣い、黛よりも高く投げ入れる。同じかごを持つ桐島は、一輪一輪、額の前で静かに祈りを捧げながら死を悼んだ。
 やがて、かごの中身がなくなった三人はそれぞれ、まだ花束を抱えたままの仲間の腕や肩へそっと触れてから、キャビンに戻っていった。
 波間に、白いカーネーションがたゆたっている。
 船の上の三人はまだ沈黙を守ったまま、海面をじっと見つめていた。
「神取さん、わたし今、セラピスト見習いをしています。あの事件があって自分を見つめ直して、わたしも誰かの心に寄り添いたいって思ったから。わたしなりの方法で、誰かの心をそっと支えられるように、って……」
 最初に声を発したのは、園村だった。わずかに口元をほころばせ、白百合を見つめて独白する。
「だからわたし……あなたのこと、恨んでません」
 最後にそう言い切って、花束は高く宙を舞った。
「あーすっきりした! ほらほら、次は南条くんと城戸くんの番だよ!」
 園村はにっこり笑いながら、残る男子二人の背を文字通り押す。ずっと神妙な面持ちを浮かべたままだった南条が、うなずきで応じた。
「……俺はもう、彼奴に語るべき言葉は持たん」
 あの戦いの中で。差し出した手を払いのけられた最後の瞬間で。南条は、神取と何かをわかり合った気がしていた。だからもう、今さら言葉は必要なかった。
「せめて安らかに眠れ」
 二つめの花束が、海を泳いだ。
 南条と園村は、城戸の様子を窺う。二人の間で、城戸は押し黙ったまま海を――海底を、海底に沈んだ命を見つめていた。
「城戸、無理に弔う必要はないのだぞ。別に何も言わなくとも構わん。奴から返事があるわけでもないからな……」
「そうだよ、何だったら悪口でも言っちゃう? わたしも言えばよかったかな、なんてね」
 二人の気遣いが、ついに城戸に決心をさせた。少しの逡巡の後に、ゆっくりと口を開く。
 恋人と結婚すること。その彼女が身ごもっていること。それが男児であること。母は元気で、嫁と孫ができることを大喜びしていること。母も妻も子どもも、必ず自分が幸せにしてみせること――それらを、ややたどたどしいながらも、彼にしては饒舌に語った。そして深く吸った息を、少しの間だけ肺に留めてから、
「そ、それから……ガキの名は、鷹司にするつもりだ」
 息を吐き出すついでのように言い切った。
 南条と園村は顔を見合わせて、少し微笑む。
 異母兄を恨んでいたはずの城戸が、何を思ってその男の名前の一文字を子どもに背負わせたのか、仲間の誰も知らない。だが、それが悪い感情でないことは、誇らしげな眼差しが物語っていた。
「……もう出てくんじゃねえぞ」
 最後にそう告げると、手を強く握り締める。大きく腕を振り上げ、手の中にあった花束を、有りっ丈の力で海面へ叩きつけた。
 キャビンの中から、その様子を見ていた桐島たちがデッキへ出てきて、先ほど同様に船べりへ並ぶ。水面をゆらゆらとたゆたう白い花々は、どこか命のともし火にも似た儚さを感じさせる。六人は、それらをただ黙したまま見送った。
 クルーザーがその海を離れてから、少しの後。
 波に翻弄される一輪の白百合が、ふと海中へと姿を消した。そのまま長い時間をかけて、ゆるやかに回転をしながら静かに沈んでいく。
 まるで彼らの想いを、海の底まで届けるかのように――。

葬送行進曲 :2019/11/08
2019年は三日前からカウントダウンしました
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