昨晩、春の雨に打たれた桜の木から、ひらりひらりと花びらが散っている。まだ地面に残る水たまりへ沈む桜色は、人々の靴裏に素知らぬ顔で張り付いた。入学式を終えて緊張から解放され、翌日からの新しい生活に胸を躍らせる少年少女たちの真新しい靴にも、然り。
 桐島英理子もまた、今年度における聖エルミン学園の新一年生の一人だ。だが、少女らしからぬ端麗な横顔は俯き加減で、ハレの日にはおよそ似合わない表情が浮かんでいる。その上、同じ制服を着た新入生の中を歩く彼女の足取りには、周囲との激しい温度差があった。
 彼女は、独りだった。
 両親は入学式に参列していない。離れた場所から通うがゆえに友人もいない。だから、周りの楽しそうな姿がまぶしくて、妬ましくて――怖くて。式が終わるやいなや、早足で学園の正門から外へ出て行った。
「きゃっ……!」
 学園沿いを進む中、不注意で水たまりを踏んだ。パシャンと跳ねた水の分、靴の重みが増した気がして、歩く速度はぐんと下がる。
「How unlucky I am...」
 不運を嘆きながら重たい足を引きずる。ふとそこへ視線を落とすと、学園指定のローファーに、小さな花が咲いていた。
 それは、両親からもらった花の形をしたシューズクリップだった。じっと眺めながら、これでよかったのだと、自分に言い聞かせる。
 入学式が双子の妹の学校と同じ日付だったことも、父親がその日に抜けられない仕事が入ったことも、ちょっとした不運な偶然だ。妹と別の高校に行くことを決めたのは、自分の我が儘だった。なら、母親に妹の学校へ行くよう勧めるのは、当然の流れであり、姉としての務めだろう。
 少しばかり運が悪かっただけのこと。だから、これでよかったのだ。
 それでも、そう思おうと努めたところで、年頃の少女が一人で入学式に参列するという寂しさや居心地の悪さを拭いきれるわけではなかった。
 桜並木の下、家へ向かうはずの足が止まったまま動かない。熱が目頭に、ツンとした痛みが鼻の頭に宿り、それぞれが徐々に主張を強めていく。
 彼女は、はっとして周囲を見渡した。そうして誰もいないこと確認した後で、自己嫌悪に陥った。
 こうやって自分は、いつも、いつでも、誰かの顔色ばかりを窺っている。誰かから自分がどう見られるか、どう思われるかばかりを考えている。
 人の望む桐島英理子で在ろう、人が思い描くままの桐島英理子で在ろう。自分は帰国子女で、おしとやかで、いつも穏やかに微笑んでいるような女性で在ろう、否、そうでなくてはならない。
 本当は――普通の女の子でいたいのに。
 普通で在りたいと願ったから、自分を知る人間さえいなければ少しは変わることができるかもしれないと、通う学校を変えた。けれど、それが精一杯で、そこまでだった。
 結局、何も変わらない。
 我が儘を言ったからと、両親には物分りのいい娘の顔をした。妹にも入学おめでとうなんて優しい姉の顔をした。そのくせ、一人でいる姿を見た人に後ろ指をさされるのが怖くて、さっさと学園を後にしてきた。
 そして今も、泣いている姿を誰かに見られてはならないと周りばかりを気にしている。
 私は、取り繕うばかりの私から、何も変われない。
 長いまつ毛を湿らせていた涙が雫になり、白肌に一筋の線を描いて、形の良い顎へ。顎の先からぽつりと垂れ、まだ濡れたままの地面に落ちて弾ける。
 そのとき、ざあっ、と。真正面から春風が駆けてきた。
 桜の花びらを巻き込んで足元から舞い上がる突風は、刹那、薄桃色のスクリーンを作り出す。少しだけ長い瞬きを経て、視界を開けると、そこには一人の少年が立っていた。
「えっ……」
 一体いつからいたのか、まるで魔法で現れたかのような少年に驚きを隠せない。胸花をつけた聖エルミン学園の制服を着ているのを見るに、自分と同じ新入生だろう。少年は、花びらがまだ舞う中で空を仰いでいる。その、すっとした立ち姿はまるで風と溶け込むような、どこかそうした透明感すら感じられて、泣いていたことも忘れ、しばし見とれた。
 風が、ぴたりと止む。
 少年はやや癖のある髪を指先で軽く直しながら、こちらを向き――切れ長気味の中性的な瞳をやんわりと細めた。
 目が合った途端、桐島は我に返った。泣いている自分を見られてしまうのはやはり嫌で、慌てて顔を俯ける。俯けてから、気を悪くさせたかもしれない、と自己嫌悪に陥りかけたとき、少年がこちらに近づいてきて、
「これ、よかったら」
 ズボンのポケットからハンカチを取り出し、差し出した。
 それがあまりにも自然な振る舞いだったもので、桐島も気づいたときには手を伸ばしていた。受け取ったハンカチは薄手で、男子高校生らしいシンプルなものだった。
「あの……ありがとう……」
 もごもごと礼を言うと、少年はわずかに微笑っただろうか。顔を下に向けたままの桐島には見えなかったが、そんな気がした。
「それじゃあ、また」
「あ、待って……、ッ」
 あっさりと別れを告げた少年を思わず引き止めようと顔を上げかけ――そのとき、再び桜の花をまとって、春風が駆け抜けた。
 一瞬、まだ涙に濡れる瞳を閉じる。ぱっと目を開けると、少年はもうそこにはいなかった。
「うそ……What happened?」
 周囲を見渡すが、誰もいない。
 現れたときもそうだった。まるで魔法のように現れ、幻のように消えてしまった。
 けれど、少年が渡してくれたハンカチは、確かに手の中にあった。改めて見ると、アイロンが角まできちんと当てられていて、丁寧にたたまれている。彼がしたのか、彼の家族がしたのかまではわからないが、清潔さと真面目さが伝わってくるようだった。
 それをそっとまぶたに当てると、まだ彼の温もりが残っている気がして、わずかに気恥ずかしい。だが、押しつけがましくない優しさが、嬉しかった。
 押し当てたハンカチに、涙が吸い取られていく。悲しみと一緒に消えていく。
 一頻り泣いた桐島は少しだけ目と鼻を赤くしながら、それでも美しさの損なわれることのない顔に微笑みを浮かべた。
「帰ったらお洗濯して、ironを当てないといけませんわ」
 もしかすると、桜の妖精だったのかもしれない、なんて。そんなことを考えながら、家に向かう。鼻歌混じりの軽快なステップは、水たまりをパシャンと跳ねさせたが、今は気にならなかった。
「Thanks, Gentle boy」
 鈴を転がすような声を、春の日差しと桜が柔らかく彩る。
 少年といつか再会できることを、この出会いが幸運だったと胸を張れる日が来ることを夢見て、少女は新しい毎日に向かって歩み始める。
 ――それは、彼女自身も知ることのない、恋のはじまり。

Girl Meets Boy :2020/02/02
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