魔女にまつわる話 達哉Ver.
魔女め、と。この世ならざる身勝手な憎悪が、劫火の中にけたたましく轟いた。
ああ、魔女だと言うんならそうだろう。だって彼女は、あんなにも虚しさに満ちた俺たちの心を癒やしていった。あれが魔女の所業だと言うのなら、そうだろうさ。彼女の言葉は多くの人を虜にし、笑顔は多くの人を魅了する。
――だと、しても。
「キミ、デジャヴの……?」
胸の痛みに顔を歪めて喘ぐ彼女と、今はJOKERとして立つ男の間に入る。
「須藤竜也――。『向こう側』のお前も、『こちら側』のお前にも、この女を魔女と呼ぶ資格はない……ッ!」
魔女だとしても、いやだからこそ、俺は――この、舞耶姉の笑顔を。舞耶姉のいる世界を、未来を守るために、俺は罪を背負い、独りで戦い続けると決めたのだ。
音も立てずに、刀の柄を返す。
地を蹴り、哄笑と炎の間隙を縫って、世界を跨ぐ宿命に刃を向けた。
オーダー:ラブポーションベリー
吐き出したため息が、真冬の空気に冷やされ、白くけぶって消えていく。
進路も決まり、あとは無事に卒業するだけ、というある日の放課後。ゆきのの目の前には、それなりの行列があった。駅で見かけるような行儀の良い二列の行列を構成するのは、同じ年頃の少女ばかりだ。だが、列の中で自分だけが頭半分ほど突出している上、精神的な若さが違う。
「こんな寒い中だってのに、なんでアイス屋が繁盛してるんだか……」
少し鼻の頭を赤くして、ゆきのが行列に向かって呆れ声を投げる。すると、隣に並んでいる綾瀬が、同じ鼻の色をして微笑った。
「それだけオイシイってことじゃん? 超楽しみ~」
自分より15センチメートルほど背の低い綾瀬に半ば引きずられて来たのは、最近できたという人気のアイスクリームショップだった。やけにファンシーな柄のキッチンカーには、真冬だというのに女子高校生たちが殺到している。
おかげで目下のゆきのは、外の寒さと居心地の悪さの両方にさらされる羽目となった。無論、その程度のことで萎縮する性格ではないのだが、気を抜くとため息くらいは出てしまう。
「……ま、アンタが楽しいなら、それでいいけどさ」
上機嫌な姿を見て、表情が和らぐ。
実のところ、綾瀬からアイスを食べに行こうと誘われたときには、寒いし、金がもったいないし、妹や弟が待ってるし、と、散々不満を言ったものだ。しかし以前、自分が就職間際までアルバイトのシフトを入れていると話したとき、綾瀬がひどく寂しそうな顔をしたことがあった。
その彼女の――自身が今日は休みだと告げたときの華やいだ顔と言ったら、まるで子どもみたいに大喜びしたのだ。そうなると、するりと腕を組んでじゃれついてくるのを拒むという選択肢など、浮かびもしなくなる。
「ねえねえ、黛はどのアイス食べんの?」
「アタシは……そうだね、優香の好きなの選ばせてやるよ」
「ホント? やったあ、黛だ?いすき!」
綾瀬があまりにも無邪気に笑うから、まるで妹が増えたような気がしてしまって、つい甘やかしてしまうのだが――だが。
「ほら黛、食べさせ合いっこしよ! あーんってして」
このコギャルときたら、妹では持ち得ないコケティッシュな色気をまとって我が儘を強いてくるのだ。
「ん?、超イケる!」
たった15センチの差で交わされるアイスクリームに戸惑いながら、
「ほらあ、黛も食べなって」
それでも結局、嬉しそうな笑顔に絆されたゆきのは、耳たぶを少し赤くしながら、目の前に差し出されたプラスチックのスプーンを、意を決して咥えたのだった。
「どう?」
「ああ、……悪くはないね」
――寒い中で食べるアイスが存外悪くないのは、この店のアイスがおいしいからなのか、それとも、
ひやかしおことわり
ここは御影町一丁目にある『YIN&YAN』。いわゆるコンビニである。
コンビニエンスストアという形態の店舗など、セベク・スキャンダルさえなければ足を踏み入れることすらおよそなかったであろう南条にとっては、今も仲間と一緒でなければ寄り付くことのない場所である。ゆえに南条の中では、そこはただ黛の働くバイト先、というイメージしかない。
「いらっしゃいま――なんだい、南条じゃないか」
一人で入ることのないコンビニに入店すると、クラスメイトである黛は、言葉の最初と最後で態度を一変させた。しかめた眉は、「笑顔を浮かべて損した」とでも言いたげだ。
「なんだとは何だ。客には愛想よく振る舞うのが正しい店員の在り方だろう」
南条が唇をへの字に曲げ、腕を組む。レジカウンターの中で、黛はやたらと真っ赤な制服をまとった肩をすくめ、一笑に付した。
「アンタがコンビニで買い物したのなんざ、ライフルや弾丸くらいのモンだろ? ただの冷やかしを客とは呼ばないさ」
「ふむ……。今はさすがに売っていないのか?」
「……あったら買うつもりだったりしないだろうね」
「さあ、どうだろうな。悪くないかもしれん」
今度は南条が肩をすくめ、薄い微笑みを浮かべる。
黛はその冗談を気に入ったらしく、なんだいそれ、とカラカラ笑った。笑いながらレジの後ろを整理する姿は、しっかり者の彼女らしい。
「それで? その冷やかし客が何の用だい」
「別に用はないが」
「はあ?」
煙草の補充をしていた手を止め、訝しがる表情でこちらを振り返る。正直なところ、南条自身もなぜここに来たのか、と内心で首をかしげていた。
「強いて言うならば、なんとなく……かもしれんな」
黛が、パチパチと切れ長の目を瞬かせている。おそらく、同じく不可思議に感じているのだろう。
南条圭という男に、なんとなく、という非合理的な行動原理などありはしない。ましてや、そんな理由で時間を浪費するなど、あるはずもないのだ。
それでも南条は、用のないこの場所へ、一人で訪れた。
「なんとなく、か……。アンタ、本当にあの事件で変わったね」
「それを言うならば貴様もだろう、黛」
互いに、変わることのできた理由を知っている。知っていて、あえて口に出さないのが、自分たちの心地よい距離感なのだろう。
ああ、だから俺はここに来たのか、と。
ふと自身の行動原理が胸に落ちる。出てきた答えは合理的ではなかったが、今の南条には理解の及ばないものではなかった。
「では、俺は帰る」
「南条」
納得して家路につかんとした足を、黛が呼び止めた。
「――またのお越しを」
レジカウンターの中から、冷やかし客への笑顔が向けられる。皮肉を含まないそれは好ましく、南条は薄い微笑みと「ああ」という言葉だけを残して、店を出て行った。
2020パオフゥ誕
勤勉な気象庁が梅雨入りを発表して間もないと言うのによくここまで晴れたものだと、澄んだ空を見上げた。自らの皮肉な口元から立ちのぼる副流煙が、青空に薄雲を作っている。
手袋の隙間からくゆる煙を視界に入れながら、ああ……と、ため息にも似た息を吐いた。
お前が死んでからは、空の青さにも、
生前の
自分の誕生日なんてものにも、興味なんざこれっぽっちもなかった。だが、もう――その
吸い殻を墓前に供えて、立ち上がる。
よく晴れた梅雨の空をもう一度仰ぐ。それでもまだほのかに湿気を含んだ梅雨の風は、
だった
男の長い髪と紫煙を、ゆるやかな速度で掻き消していくように揺らした。新品
新しい石鹸を買った。香りのない、真っ白な石鹸だ。
新しいシャツを買った。皺も染みもない、真新しい真っ白なシャツだ。
以前の石鹸は、香料が強いばかりで血の匂いも消さない粗悪品だった。殺した相手の血すらなかなか流さなかった。これはもう捨ててしまおう。
シャツは返り血で汚れてしまったのが気がかりだった。手洗いも漂白も面倒だ。何よりも洗濯機に穢れた下等な生き物の血がつくのは許せない。これも捨ててしまおう。
新しい部下を雇った。屈強で、口答えをしない男だ。
以前の部下は、不当な殺しを戸惑う男だった。その前の部下は手駒の科学者たちと無駄に親しくなった。その前は、死体を見て吐いた。それからその前は、……ああ、全て覚えてはいるが、私の野望には不要な者たちでしかなかった。
だから、全部、
――私は、
蝶になった夢を私が見ていたのか/私になった夢を蝶が見ているのか
オセロの石みたいに。日常ってものは、ほんの些細なことでくるりと裏返るものだと、根拠もなく思っていた。
誰かが置いた盤面の角の黒の、対角線。その場所に物言わぬ黒を置けば、静かに支配していたはずの白が色を奪われていく。白陣営は打つ手もなく残りの角を奪われ、あっという間に盤面は黒く染まり、
心の片隅で、そんなゲームのような刺激を求めていたのかもしれない。セベク・スキャンダルの冒険は、どこか少し、楽しかった。
それを自覚したのは、あそこにいた――
「アンタってさぁ」
突如として意識が現実に戻ってくる。途端、ガチャガチャとした騒音が鼓膜を揺らした。
「マジでゲームうまいよね~。どんなのでも得意だし、ハイスコア常連じゃん」
そうだ、今は確か、仲間たちとジョイ通りのゲームセンターに寄り道している最中だった。いくつかのゲームで遊んだ後、綾瀬に半ば無理やり引きずられる形でプリクラを撮っているのだった。
「けど……うまいくせにさ、つまんなさそーなんだよね。なんかもーゼンブ飽きてるってカンジ? あ、これ超かわいい~」
ゲームセンター特有の喧騒が、プリクラのカーテンでわずかばかり遮断される。その中で、綾瀬はフレームを選びながら、こちらを見ることもなく話す。
彼女らしい抑揚のない声に、胸が激しく軋み、痛んだ。
何の気もなく放たれたはずの言葉が、氷の矢のように心臓へ突き刺さる。凍り付いた自分だけを残して、機械的な声のカウントダウンが始まっている。
「さ、撮ろ!」
カウントダウンが終わる。綾瀬が腕を組む。機械音とともに、シャッターが下りた。一体どんな顔で写ったのかもわからないまま撮影が完了し、綾瀬はそそくさとプリクラの取り出し口へ向かった。自分も続いてカーテンの外に出ると、騒音が一気に増した。
待っている間、アーケードゲームに目を向ける。すると、先ほどまで考えていたことの続きが脳裏によみがえった。
そうだ。訪れた非日常を楽しんでいることを自覚したのは、あの、アラヤの岩戸に入ったときだ。岩戸の深層近くで
あそこにいた
「――はい、プリクラ半分こね」
印刷が終わったらしく、目の前にプリクラが差し出される。はさみで切り分けられたそれは、まだ少し温かい。
そこに写っていたのは、冷たい顔で微笑う、左耳にピアスを着けた、
不意に、頭の中で、盤上のオセロの石が次々と返っていく音色が響いた気がした。
朝ぼらけ
この世でも、あの世でも、向こう側でも、こちら側でもない空間で、誰も知らない戦いがひっそりと幕を下ろした。
特異点の少年が、元の世界に帰るという決意をどこか大人びた瞳で語ると、ともに戦ったこちら側の大人たちに背を向ける。
この集合的無意識の狭間を我が物顔で支配していた
「達哉クン、頑張ったわね……。ほんとに頑張った。お姉ちゃん、ちゃーんと見てたぞ」
わずかに震えた身体を、後ろから抱き締める。
「キミが私たちのために戦ってくれたこと、キミのこの温かい背中、絶対忘れない」
向こう側には、自分はもういないのだ。だからせめて罰を受けて帰っていく彼に、心からの感謝と、この温もりを伝えたかった。
無情にも、触れていた背中が消えていく。温もりが、失われていく。
「ねえ達哉クン、向こう側の私は忘れなさいと言ったけど、今度は覚えていて。――例えもう二度と逢えなくても、私たちは、私は、キミの隣にいるわ」
嗚咽に阻まれた言葉は、けれど、大切な貴方に届いたと信じて。舞耶は、消えた温もりを確かめるように握り締めた手のひらを、胸元へと引き寄せた。
放假
ここは、こんなにも眩い場所だっただろうか。
パオフゥは、夜になってなお一層輝きを増した台北の通りに立ち、サングラスの向こうの瞳を細めた。
須藤竜蔵や天道連――ニャルラトホテプとの戦いを終えてから、数か月。事件直後こそ需要が高く、多忙を極めていたマンサーチャーの仕事だったが、いくらか人を雇って数をこなしていくうちに日が経ち、次第に珠閒瑠市も落ち着きを取り戻していった。そうして少しばかり手の空いたパオフゥは、相棒の勧めでまとまった休暇を取ることとなった。
さて、どうしたものか。
大事なものを守れなかった男の名を捨てて日本へ戻ってきたときから、ずっと走り続けてきた。かつては、復讐あるいは自責の念に駆られて死に急ぎ、現在は、かつてあった正義を、今の自分なりの形で体現して生き急いでいる。ゆえに、思いも寄らぬ休みが目前に降ってきたパオフゥは、どうしていいかわからないと断ったほどだった。
「大体休みって言われてもなあ……酒飲んで寝るくらいしか……」
「ちょっとぉ! せっかくの休みなんだからもうちょっと有意義に――あっ、そうだ! 旅行とかど~お? 今ならシーズンオフだし、安くでいいとこいけるんじゃない?」
決め手は、芹沢のこの一言だった。
「まあそうだな……どうせ酒飲んで寝るんなら、家でも外でも変わりゃしねえ」
思い立ったが吉日というやつだ。旅先を決めようと、パオフゥは煙草をくわえたまま目の前のキーボードを軽快に叩き始める。後ろから、「あのねえ……」と呆れた相棒の声が聞こえたが、耳に入らなかったことにした。
行き先は、すぐに決まった。
当初は国内旅行のつもりだったのだが、ふと開いた旅行サイトで見かけたバナーを見かけた途端、まるで吸い寄せられるようにそれをクリックしていた。
台湾。
正直を言えば、この国で過ごしていた頃のことは――よく覚えていない。
かつて持っていた自分の信念も愛情も砕け散り、生きたように死んでいた。胸にあった炎の代わりに憎悪の炎が宿るまで、真実、自分は生きていなかったのだ。
だから夜の台北桃園国際空港に降り立ったとき、パオフゥは、知っているのに知らない、という妙な感覚に襲われた。それでも、台北市内をそぞろ歩いているうちに、全て他人面のようで、けれど確かにほのかな懐かしさが沸き上がってくる。
日本とは異なる言葉、文化、空気。活気に溢れた人々、街並み、環境音。喧騒にもほど近い熱量の中に身を浸しながら、不思議と心は穏やかで、晴れ晴れとしていた。
ああ、自分は確かに――ここで、生きていたのだ。
かつては見えていなかった、否、見ようともしていなかった街の景色を、個性的なラウンドサングラスへと映し、ゆっくりと歩き出す。
人もネオンも眩いほどの生彩を放つ中、パオフゥの纏うゴールドスーツが溶け込んで、消えていく。
悪くない休みになりそうだ。