10日後に死ぬ老執事|03


 大きな腰高窓の隙間から、爽やかな風が入ってきている。窓の側に置かれた勉強机は、幼稚園児にとってはいささか広い。だが、幼い主人は大きな椅子へ浅めにちょこんと腰かけ、小学生高学年向けの本を一心に読んでいた。
「この辺りで一息入れましょうか」
 主人は本に向かったまま、首肯だけで返事をした。断るにせよ応じるにせよ、いつもならばもう少し反応があるはずだが、と執事は内心で首をかしげながら、いつも通りに休息の準備にかかる。
 部屋の隅に位置する勉強机の、やや後方に置かれたローテーブルを綺麗に磨く。その上へ、レース仕立てのティークロスを敷き、柑橘類のジュースと手製のクッキーを乗せた皿を並べる。そうして主人に視線を送ると――まだ、本を平たく置いたまま、机の方を向いていた。
「ぼっちゃま、適度な休息はより知識を吸収させますぞ」
 声をかけるが、動きはない。さすがに執事は怪訝な面持ちで、机へ向かう。日も傾き始める頃だ、まずは窓を閉めようと木枠に手をかけたところで、らしくもない蚊の鳴くような声が聞こえた、気がした。
「……ぼっちゃま? お呼びになられましたか?」
「なあ、やまおか……」
 窓枠から手を外し、目線の高さを合わせるべく主人の横へ膝をつく。そこで執事は、まっすぐ前を向いたままの頬に、わずかな涙の跡があることに気がついた。
「お父上もお母上も、どうして……なぜ、家に、いらっしゃらない? なぜ、ぼくのすがたを見に来てくださらないんだ」
 ぽつり、とこぼれ落ちたのは、子どもらしい悲しい声だった。涙をこらえ、感情を押し殺し、それでもどうしようもなくたまらなくなった寂しさを内包した、声。
 執事の胸が、ずきりと痛む。
 幼稚園に通い始めれば、様々な行事がある。そうなれば自ずと保護者が駆り出される場面も増えるのだが、彼の両親に限っては、その多忙さゆえ、入園の手続きから今日に至るまで全ての行事に参加をしたことがなかった。やんごとなき理由があるとは言えど、それを本人が言葉の上で理解できていたとしても、心は、磨耗していく。
 母親や父親と離れたくないと登園する園児の姿を。迎えに来た親の姿を見て心底嬉しそうに抱きつきにいく園児の姿を。運動会や発表会、参観日に観に来る他の子の両親が、我が子の成長を喜ぶ顔を――彼は日々の中でずっとそれらを目の当たりにし続け、幼い心をすり減らし続けてきたのだ。
 執事は着けていた手袋を外し、鼻をすすり始めた主人の頭にそっと乗せた。
「ぼっちゃま……」
 ぽたり、と彼のかける眼鏡からこぼれ落ちた涙が、広げたままの本にいくつも染みを作っていく。
 どれほどの寂しさ、哀しさ、悔しさ、羨ましさを、その内側に押し込めてきたのだろうか。どれほどの間、苦しんで、我慢してきたのだろうか。想像するだけで胸が痛んで仕方ない。
 それでも――だとしても。
「ぼっちゃまのご両親は、ご立派な仕事をしておられます。特にお父上様は、この日本を背負って立つことのできる、素晴らしい御方です」
 どんなに辛かろうと、彼が、南条グループの次期総帥という立場に生まれてしまった以上、『私』を殺さねばならないときがあることを理解しなくてはならない。コンツェルン由来の大グループの総帥ということは、国の政治、世界の経済にも大きく関わる。どんなに幼かろうと、自身や両親が、『公』とは切り離せぬ存在であることを覚えていかなくてはならない。
 そして、それを傍にいて教えるのが、己が役目なのだ。
「お父上が……いま、日本をまもっているのか?」
 泣きながらこちらを見て、主人は問いかける。執事は、撫でる手を止めぬまま、大きくうなずいて見せた。
 そもそもこのような幼い子に、理解をしろ、分別を弁えろというのは難しい。国に必要だから、世界に必要だから、子どもは我慢しろなどと、理不尽なことだ。だというのに、この幼い頭脳は、何を、どう考えたのだろうか。
「……そうか」
 少ししてからそう呟くと、唇を一文字に結び、眼鏡を外して涙を拭った。
「やまおか、ぼくを強いおとこにしてくれ。もう二度と泣くことのない、強いおとこに」
 両眼を真っ赤にしながらも、主人は真っ直ぐに執事を見た。執事もまた、その瞳を見つめ返す。澄んだ、迷いのない瞳に、胸が打ち震えた。
「ぼくは、りっぱな日本一のおとこになるんだ」
「ぼっちゃま……山岡は、ぼっちゃまのことを心から誇りに思いますぞ」
 最後にもう一度だけ優しく頭を撫で、立ち上がる。
「さあ、少し遅くなってしまいましたな。おやつの時間にしましょう」
 そう言うと、彼は年相応の笑顔を浮かべ、手を洗いに向かった。
 ことさらの静けさを得た部屋は、日が傾いたことで少しばかり冷えてきた。手袋を嵌め直し、窓を閉じて振り返る――その前に、べっ甲縁の眼鏡を外す。
 まだ幼い主人のあの眼差しに、日本の明るい未来を、確かに、見た。
 執事は、思わず熱くなった目頭をしばらく押さえ、それから、ジュースを新しいものに入れ替えようと、ローテーブルへと歩みを寄せた。

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