10日後に死ぬ老執事|06


 春を知らせる風が、窓ガラスをカタカタと鳴らした。カーテンから外を見てみると、つぼみを膨らませた桜の枝がいささか強めに揺れている。だが、対策の必要性があるほどの強さではないと判断して、執事は座っていた椅子へ戻る。
 心配だというのなら、強風よりも、こんな夜に限って「ぼくはもうすぐ小学生になるのだから、一人でねることにする」と言い、初めて添い寝なしで寝室へ向かった幼い主人の方だ。しかし、いたずらに声をかけては彼の自立心の邪魔になるだろう。耐えて見守るのもまた、執事としての務めだ。落ち着かない気持ちを堪えるように大きく息を吐き、机に向かう。
 目の前には、入学準備のための文具や数枚の衣類があった。
 幼いと思っていた主人も、もうすぐ入学を迎える。幼児から児童、園児から生徒へと環境が変われば、自ずと衣服や持ち物にも変化が出るものだ。そして、すべての持ち物に名前を、というのは子どもの集まる場所において常識であり、それもまた保護者としての仕事である。
 こんなとき、書道の心得が役に立つ。執事は、そのひとつひとつに丁寧に名前を入れた。
 それを終えたら一度主人の寝室へ。扉の前で聞き耳を立て、音がないことを確認してから、また戻る。やおら机の端に置いてあった裁縫箱を引き寄せると、黒い糸を針穴に通し、針山に刺す。
「実に大きくなられましたな……」
 真っ白の肌着を目前で広げ、まじまじと見つめながら呟く。
 事あるごとに布おむつを洗った。細い脚が小さな長肌着を蹴り脱ぐたび、紐をくくり直した。幼稚園へ迎えに行くと、いつも泥だらけの体操服が鞄に入っていた。腰上げや肩上げをした浴衣を喜んで着ていた。
 いずれもまぶたを閉じれば鮮明に思い起こせるほど真新しい記憶だというのに、肌着の大きさが時の流れを物語る。
 彼の成長に感激する思いと――手を離れていく実感が、ひしと胸を打った。
 わずかに潤む視界の中、執事は白い肌着に、名前と彼の大好きな『1』の数字を黒糸で刺繍していく。そうして三枚目の作業を終えた頃、部屋の入り口にかすかな気配を感じてそちらを向いた。
「……やまおか」
「おお、ぼっちゃま。いかがなされましたか?」
 そこにいたのは、幼い主人だった。執事は手を止め、所在なさげに立つ彼の元へ近寄る。
「お水でも飲まれますか? それとも、お手洗いですかな?」
 膝をつき、声をかける。すると、一度首を横に振った後、幼さを大いに残した顔をわずかに赤く染めながら、
「その、やっぱり……ぼくがねむるまで、ついていてくれないか……」
 震える窓ガラスの音よりも小さな声で言って、俯いた。
「……ええ、ええ。もちろんですとも、ぼっちゃま」
 立ち上がり、主人の手を取って寝室へ向かう。
 まだ小さな手が自分のそれをきゅっと握り返してきたのがわかると、執事の胸は、言いようのない喜びで満たされた。
 これでは、どちらが寂しがっているのかわかったものではない。内心で苦笑いしながらも、もうしばらくは、この愛し子の成長をゆっくりと見つめ、そして、守っていきたいと願う。
 それは自分に課せられた務めであり――自分に与えられた幸せなのだから。

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