10日後に死ぬ老執事|07
下校時刻は、とうに過ぎている。現に、同じ学年と思しき児童たちの多くはすでに門をくぐり抜けており、じき上級生の下校時刻を迎える頃であった。
「やまおか、待たせたな」
何かあったのだろうかと正門の柱の影から様子を窺っていると、その後ろから声がかけられた。反対側の門から出てきたのだろうか。慌てて後ろを振り返れば、待ちわびた主人の姿があった――が、その姿を一目見ただけで、執事の顔から血の気がさっと引いた。
「ぼ、ぼっちゃま?!」
朝には綺麗に整えてあった身だしなみが乱れ、目に見える怪我が全身にいくつもある。制服には破れている箇所もあり、歪んだ眼鏡は、片側のレンズが外れてしまっていた。
急いで触診を行ったところ骨などに問題はないようだが、ひどく痛ましい状態に変わりはない。
一か所ずつ傷の状態を確認しながら、何があったのか、どうしたのかと何度も問いかけてみるが、主人は口を固く閉ざしたまま何も言わなかった。
いくつかひっかき傷が見受けられたところを考慮すると、いじめの可能性もある。そうなると、彼の自尊心の高さを思えば言いたくないのも当然だろう。あるいは、泣くのを堪えているのかもしれない。
「……家へ帰り、手当てをいたしましょう」
ひとまず場所を変え、気持ちの切り替えが必要だ。そう判断した執事は、車へ乗るように優しく主人を促した。
家へ戻ると、まず主人を入浴させた。所々痛むようで、石鹸を使うと時折顔をしかめる様子が見えた。それでも、何があったという説明はおろか、声ひとつ発さないままだった。
我慢強くなられたものだ、と心から思う。
強い男になりたいと言ったあの日と、初めて手を上げたあの日。それ以外で、彼は本当に涙を見せなくなった。子供らしいわがままも減った。以前にも増して、様々なものに対しての努力をするようになった。
だが、一人で耐えることが決して美徳というわけではない。あらゆるものへの対処を知ることも、また、自分で解決できないことを解決できる人間に任せるということも、必ず将来的に必要となる強さだ。
「消毒をいたします。少しばかり沁みますぞ」
入浴を終え、椅子に座らせた主人を窺う。うなずいたのを確認すると、消毒液を染み込ませた綿球をピンセットで摘んだ。
まずは顔面、頬骨の上。続いて、唇の端、顎の下。傷口ごとに新しく替える綿球からは消毒液が、じゅわ、と傷口へ押し当てるたびに染み出る。それを清潔なガーゼで拭き取り、程度に応じて化膿止めを塗ってからあて布を被せる。
多少痛みがあるはずだが、今度はあまり表情を変えなかった。我慢をしているのか、あるいは日々の鍛錬の賜物で、少し痛みに対しての慣れがあるのかもしれない。いずれにせよ、顔の手当ては順調に進み、それが終わると、スペアの眼鏡を手渡した。
「ぼっちゃま、何があったのかお話しになりたくない気持ちもわかります。ですがせめて、この山岡にだけでもお話ししてはいただけませんか」
眼鏡をかけた主人の目を見て、真剣に問いかける。しばらく黙って視線を合わせ続けると、彼は諦めたように眉尻を下げた。
「……けんかをした」
「ふむ、相手はお一人ですか?」
「ああ、そうだ……」
「ご学友ですかな?」
「ちがう! ただ同じクラスというだけだ」
眉をキュッと上げて、言い切る。だけ、という部分にずいぶんと力が込められているのを聞くに、余程何か腹に据えかねたことがあったに違いない。
「して、喧嘩の理由はどういったもの……」
「――言いたくない」
ならばと理由に踏み込むと、きっぱりと拒んだ。
何かしら言いたくない理由があるのだろう。こういうときの彼は、頑なだ。無理に聞き出そうとするのは決して得策ではない。執事は目線を下げ、手足の消毒を続けた。
「わかりました。では、ぼっちゃま……その喧嘩には、勝たれましたかな?」
「当たりまえだ、このぼくが負けるわけないだろう」
少ししてから投げかけたこの質問には、少し胸を張ったような答えが返ってきた。
「さすがはぼっちゃま」
南条一刀流の指導者として、とても誇らしいことだ。微笑んでみせると、やっと主人も表情を和らげる。だが、執事、保護者としては、喜んでばかりもいられない。
一通りの処置を終え、立ち上がる。
「他にどこか痛むところはございませんか?」
「もんだいない」
「それはよろしゅうございます」
返事を聞いて、表情がほころぶ。主人が健やかであることは、何より喜ばしい。
必要のなくなった救急箱を片付けに行く。そしておもむろに彼の前へと戻ったとき、執事は上下セットの真新しい洋服を手にしていた。
「――それではぼっちゃま、ご準備ができましたら参りましょう」
それを手渡して言うと、主人は、スペアの眼鏡をかけた瞳をしばたたかせた。
「こんな時間から、どこへ行くというのだ?」
通常より遅く帰宅し、入浴も終えた。もう夕飯時にもなろうかという時刻だ。怪訝そうにする主人を前にして、執事は燕尾服の両襟をキュ、と引っ張って姿勢を正して見せる。
「決まっておりましょう、喧嘩のお相手に謝りに参りませぬと」
「なっ……向こうがわるいのに、どうしてぼくがあやまらないといけないんだ!」
立ち上がった拍子に、椅子が後ろへ倒れる。腑に落ちない感情は理解しているつもりだ。ゆえに、その無作法をたしなめることはしなかった。
「例え子ども同士の喧嘩と言えど、勝利を手にしてきたお姿……この山岡、感服いたしました。しかし、いいですかな、ぼっちゃま。勝たれたということはお相手はぼっちゃま以上の痛みを負ったのです」
椅子を直す所作も、語りかける声も。凪いだ湖面のように、静かだった。そこには、限りなく深い愛が込められている。
「喧嘩の理由がいかなるものであれ、時として、勝者こそ……上に立つ者こそが頭を下げることも必要ですぞ」
だからこそ――親よりも自分を愛してくれる執事の言葉だからこそ、まだ成長途中の幼い心にもまっすぐ届くのだ。
「……わかった」
「日本一の男児たる者、謝罪も確実にこなせなくてはなりませんからな」
不承不承の様子で着替えを進める主人の姿に微笑みながら、執事は、さて菓子折りはどんなものしようかと内心で考え始めた。