10日後に死ぬ老執事|08
既にいつもの服に着替えた執事は、いくつかの清掃用品を持ってリビングへ。夜間、人の出入りのなかった部屋はよく冷えていた。少しばかり縮こまりながら暖炉へ向かい、火を入れる。
冬の朝は、自分が年老いたことを自覚させられる。身に感じる寒さも強くなった。冷えによって節々が痛むこともある。
無論、衰えを感じさせるのは冬ばかりではない。近くのものは見えづらく、小さな音が聞き取りづらくなった。食は徐々に細くなり、ずいぶんと痩せた。頭髪も白くなった。日頃の鍛錬も疲れやすくなった。
心身ともにまだ若いつもりではいるが、年月は確実に人を老いさせる。決してそれに抗おうというつもりはない。だが、何よりも過ぎゆく時間を感じさせてくれる主人の成長が喜ばしく、そして、寂しくてたまらなかった。立派になっていく姿は我が事のように嬉しい。それと同時に、時間の経過が、自分の衰えが、近づく別れを緩やかに知らしめてくる。
軽く首を横に振って表情を引き締め直す。清掃用品の中から手ぬぐいを取り出すと、マントルピースの上にあるいくつもの写真立てへ目を向けた。
一つの写真立てを、手に取る。
写真には、まだおくるみに巻かれた赤子の頃の主人と、椅子に座って彼を抱く母親、その横に立つ父親の三人が写っていた。
これは唯一の――ただ一枚きりしか存在しない、親子三人の写真だ。
表面のガラスと枠を丁寧に拭きながら、執事は沈痛な面持ちを浮かべる。
主人は、両親の温もりを知らない。特に父親とは、親子として接したことは皆無と言っていいだろう。父親は、否、南条グループの総帥は、ほとんどない触れ合いの時間中、彼のことを常に後継ぎとして見ていた。
両親が多忙なことも知っている。それが国に必要なことも、二人が使命感に燃えていることもわかっている。彼らが息子を愛していることも、然りだ。だがそれは大人の事情で、子である主人にはあずかり知らぬことだった。親になればわかる、などとは、子どもにとってみれば大人の言い訳でしかない。事実、両親からは物や金による愛情しかもらったことがないと主人は口にする。
執事は、彼の想い、両親の想い、そのどちらにも寄り添えた。陰で主人を支えるという立場でありながら許されないことだが、執事自身、彼の悲しみを間近で見てきたのも、彼の成長に情熱と愛情を注いできたのも、他でもない自分だという自負があった。
そして彼もまた、注いだ分だけの愛情を返してくれている。――本来ならば両親に向けるべき愛を。両親から温もりを受けられなかったがゆえに、血の繋がらない自分へと。
コトンと、わずかな物音を立てながら、元の場所へ戻す。
この写真を拭くときには、どうしても胸中が複雑になってしまう。だから執事は、写真立ての掃除をするときには、いつも今の写真から始めていた。
冷えていた部屋が、少しずつ暖まっていく。ほう、と息を吐き出してから、次の写真立てに取りかかる。
入園式の写真、小学校入学、卒業式、中学校入学――節目の写真だけでなく、徒競走で一位を獲ったときやお遊戯会の写真。成長の記録の他に、日々のスナップ写真もあった。旅行先での記念写真、好きな野球チームを観戦しに行ったときの写真や、所属選手とともに撮らせてもらった写真など、どれも子どもらしい喜びに溢れたものばかりだった。
そうやって、先ほどの写真の後、これらを拭くことで気持ちを戻すのが、執事の毎朝の習慣だ。
しかし、今朝ばかりは違っていた。
拭き終えてからもう一度、家族写真を手に取る。そして、蓄えた白髭に隠れた唇を、ぐっと真一文字に結ぶ。
この冬を越えれば、主人は高校生となる。まもなく、このマントルピースにも中学校の卒業式と高校の入学式の写真が仲間入りするだろう。
だが、入学式を迎える主人が袖を通すのは、父親が望んだ高校の制服ではなく、別の制服だ。
今日は、高校の制服採寸の日だ。そして主人が、グループ総帥の敷いたレールから外れる日である。
ならば、自身も付き従い、守り、支える。この身が果てるまで――果てた後でも、なお彼の心に愛情の火を灯し続けられるように。今までもこの先も、それ以外の選択肢などあり得るはずがないのだ。
「この山岡、圭ぼっちゃまを立派な男児に育ててみせますぞ。必ずや、日本一の男児に」
産まれた日の誓いを、いま一度口にする。その決意はより固く、より熱く、老いた執事の胸に宿るのだった。