10日後に死ぬ老執事|09


 高校二年生になった主人を乗せた車は、聖エルミン学園から自宅へと向かっていた。
 新入生や三年生たちを追い越しながら川沿いを上がり、少し走る。よく磨かれた車の側面に桜並木が映り始めると、季節柄薄く開けていた窓から桜の花びらが三枚ほど入り込む。窓を閉めましょうかと問いかけたが、主人は首を横に振って、車を停めるよう指示を出した。
 停車するやいなや執事が先に下り、主人の側のドアを開ける。
 春の強風は、満開の時期をわずかに越えたばかりの桜花をも散らす。開いたドアから足を下ろした主人が、その風に揺らぐこともなく、すっくと大地に立った。
「美しいな。いい季節だ……」
 桜を眺める表情は、穏やかだ。つい先ほどまで進級式に参列していたときとは違い、肩の力がずいぶんと抜けている。それでも、いつの間にか身長を追い抜かされて見上げる形となったその横顔からは、少年の面影が失われつつあった。
「ええ、本当に。日本に生まれた喜びを全身で感じられる季節でございます」
 男らしく精悍になった顔つきを見上げ、執事は細い目をことさらに細めた。
「……なあ山岡。ぼくが小学生になったばかりの頃、同級生と喧嘩をして帰ってきたことを覚えているか?」
 花を見つめながらの沈黙を挟み、主人は不意にかつての話を持ち出した。
「もちろん、よく覚えておりますぞ。それはそれは大層驚きましたからな」
 懐かしい話だ。今でこそ笑って話せるが、あのときは本当に驚愕したものだ。南条一刀流の稽古でもあれほど傷だらけになることはなかった彼が、まだ小さかった身体のあちこちに傷を負って出てきたのだから。
「あの日……同級生からお前を馬鹿にされて、頭に血が上ってしまってな」
 少しだけ苦笑いをした後、主人が、ぽつぽつと話し始めた。
「入学式に両親が来ていなかったことを馬鹿にされたのは構わん。だが、その流れで彼奴はお前のことを愚弄した。それが何よりも許せなかったのだ」
 遠慮がないとでも言うべきか、子どもは時としてその幼さや純粋さゆえに大人よりも残酷な事実を突きつけることがある。主人はそれを是としなかった――否、できなかった。だから口論以上の喧嘩にまで発展した。
 過去のこととはいえ、自分のせいで他人を傷つけさせ、なおかつ彼自身にも怪我を負わせてしまったことに、執事は罪悪感を覚えた。しかし不謹慎だが、十年という時を経た今、幼かった彼が自分のために憤っていたことを知り、嬉しくて仕方がなかった。あの日の主人が頑なに理由を言わなかったのも、すべては自分のためだったのだ。
「ぼっちゃまは、お優しゅうございますな……本当に……本当に、ご立派になられた……」
 老いは自制を失わせる。こみ上げる喜びは、すぐに涙となった。
「お前のおかげだ、山岡。そして、ぼくが上を目指すにはまだお前が必要なんだ。これからも頼むぞ」
 主人は、少しばかり照れくさそうにしながらも、信愛の眼差しを向けて澱みなく告げる。執事は、痩せた頬を伝っていた涙を拭き、一呼吸を置いてから従者らしく深々と頭を下げた。
「もちろんでございます、ぼっちゃま。この山岡――これからもずっと、お傍におります」

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