10日後に死ぬ老執事|10
ゆえに、これは負け戦である。ただ緩やかに訪れ来る死を待つばかりの、負け戦だったのだ。
そして――その瞬間は、考えていたよりも早くやってきた。
アンデッドの中に、看護婦の服装が見えた。助けなくてはと攻撃を思い留まった、途端――ずぶ、という感触が、鳩尾に入り込む。その後、ずるり、という感触とともに熱い血液がしぶいた。
「いやああああっ!」
後ろから看護婦の悲鳴が聞こえる。かすんでいく視界には、血に濡れたメスを持ち、獣のような咆哮を上げる看護婦がいた。
あの看護婦がアンデッドだったのだと気づいたときにはもう、老いた肉体はただ倒れゆくばかりだ。
激痛を訴える腹部を押さえて、うずくまる形で前へと落ちる。病院の冷えた床に叩きつけられた拍子、顔の近くでガラスの割れた音が聞こえた。意識が遠のく。刺された箇所だけが熱く、それ以外の場所は、流血に比例して頭の先からすうっと冷えていく。足りない酸素を求めて喘いでいるというのに、呼吸は細く消えていく。息を吐こうとして、せり上がってきた血が喉から溢れた。
瞼が重い。死が、もうそこまで来ている。抗う力はない。
看護婦はどうなっただろうか、うまく逃げただろうか。同じ病院にいたはずの主人は、ご友人は、どうしただろうか。無事でいてくれるだろうか。
もはやこれまでと目を閉じた直後、周囲の空気がざわついた気がして――まもなく、何よりも聞きたかった声が頭上から降ってきた。
「やま、おか……山岡……なあ、山岡……」
不意に思い出されたのは、彼がこの世に生を受けた日のことだった。自分が産まれてきたことを、顔を赤くしながら力いっぱい泣いて知らせていた、あの日。産まれ落ちたばかりの生命をこの手で抱いた日。
主人に呼ばれたならば、応えなくては。最後の力を振り絞って、目を開ける。
泣いていた。気位の高い彼が、目を真っ赤にして、声を震わせて泣いていた。あの日とは逆で、死にゆく自分が抱えられて――けれど、生を叫ぶように泣いているのは、やはり彼の方だった。
「おお……なんと、ぼっちゃま……そのようなお顔をされては、端整なお顔が、台無し、ですぞ……」
かすんだ視界で、少しだけ周囲を見る。
アンデッドたちはいない。きっと主人が退けたのだろう。鍛錬の賜物だ。その代わりに、ご学友が数名立っている。気難しい主人にも友人ができたのだ。それは心底喜ばしいことだった。
「ぼっちゃま……もう……お別れで、ございます。立派な日本男児たるもの、いつかは一人で……一人で、立たねばなりませぬ……。山岡がお役に立てるのも、ここまでで、ございます……」
「山岡、だめだだめだ! 死んじゃだめだ……! ぼくを置いていくことは許さん!」
泣きながら首を横に振る姿は、ずいぶん幼い頃に見たきりだ。かつては彼のわがままにもよく困らされたものだ。だが、そのわがまますらも可愛かった。
今、人生の終わりを迎えようとする胸に去来するのは、懐かしさと喜びばかりだ。
強くなってくれた。友人を作ってくれた。そして――こんなことを主人に知られたら怒られるかもしれないが、もう泣かぬと誓ったはずの彼が自分のために涙を流してくれた。
別れは寂しく、惜しい。しかし、もう何も心配することはない。
「ぼっちゃま、……最後に一つだけ、この山岡と、お約束を……」
心残りがあるとすれば、主人が日本一の男児になったその瞬間を祝うことができないということだけだ。
「必ずや、この日本を背負って立つ1番の日本男児におなりください……!」
「……ああ! なる、なるとも! その姿を、お前に見せてやる! だから、だから山岡、それまで……っ」
最期の力で、震える手を持ち上げる。それを、主人はすぐに握り返してくれた。その力強さが、言葉が、胸に響いた。
満ち足りた人生だった。南条圭という少年を心から慈しみ、育てた。
まだ小さな頃、ねむるまでそばについていてくれ、と願っていた彼が、今は自分が眠るまで傍にいてくれる。産声を聞き、成長を見守ってきた彼が、自分の死を看取ってくれる。
――ああ、なんと愛おしいことだろうか。
「さすがは、ぼっちゃま……」
視界は暗み、愛し子の姿が見えなくなる。頼もしい声はもうはるか遠く、何も聴こえなくなっていく。
痛みが去りゆく。意識が消えゆく。
これは、遠からず来るべき別れだった。しかし、いつ、どのように別れようとも、自身がかけた愛情や受けた愛情は決して損なわれはしないのだ。
「山岡は……いつまでも、ぼっちゃまの……お心の、中に……」
この身が失われようとも、変わらずにずっと愛している。
これまでも、これからも、ずっとお傍に――。